河東様インタビュー

笹木
昨日(2013年5月29日)から入梅で例年に比べて1週間ほど早いそうですね。
雨が土砂降りだったらと、心配していたんですけれど、ちょうど晴れ間に来ていただけて良かったです。
河東
傘を差さないで此処まで来れましたよ。
笹木
津田塾の教え子でご健在なのは河東さんと半田さん(三石理論研究所所長)のお二人だけになってしまいました。
今日は私の知らない父のことをいろいろ聞かせていただけるかと、楽しみにしているんです!
河東
本当に懐かしいわ!
多恵子(社長)さんと長男が同じ年だったので、よく遊んだのよ。
先生が遊んでいるところを8ミリだか16ミリで撮ったのに、フイルムが無くなってしまったと、言われてね。それが残念。
笹木
私も見てみたかったです。父はカメラが好きで、よく撮ってましたよね。
早速ですが、河東さんが津田に入られた頃は、女性が大学に行くのは珍しかった時代ですよね?
河東
そうねぇ。お金のある家か娘にも教育を受けさせたいと親が思った家庭よね。家はお金持ちではなかったけれど父が学者だったから教育を受けさせてもらえたんだわね。
当時は津田英学塾と呼ばれていたけれど、英語だけでは時世に合わないし、学校の存続も危ぶまれていたので、物理学科と数学科が出来たんですよ。
それまでと全く違う雰囲気で、若い私の頭脳をくすぐったのよね。
英文科の課外授業に“科学史”をやるというので、当時3年生だった私は飛びつきました。全部で8人位の参加でしたね。
ダンネマンの「大自然科学史」をやりましたが、お天気のよい日にはキャンパスの芝生に座っての講義でした。
これがその時のもの。津田のキャンパスなんだけれど、写真だけ見ると戦争中とは思えないでしょ?
でも、翌年に入学した学生達は国民服で登校しなければならなくなったのよ。
笹木
そうですよね。戦争中ですから英語を勉強することは段々に難しくなってきますよね?
河東
そう、戦争が激しくなってきたら英文科の授業は中止。それでも勉強したい学生は寮に入って日立製作所の下請けの仕事をして、夜に英語の勉強をしました。
笹木
私は戦後生まれですから、父は私が中学に入った時に英語は勉強しなくていい。アメリカ人が日本に来た時には日本語を話せばいいんだから、こっちが合わせることはない。と言ってました。
でも自分は学生時代に勉強したので英語もフランス語もドイツ語も話してましたけれど・・・・(笑)
津田時代の父はどんなでしたか?
河東
気どってた!!(笑)
笹木
「気どってた。」の一言ですか?(笑)
でも、想像できるような気がします。
河東
私は卒業後2年間、先生の助手をしていたんですよ。
結婚を期に辞めたんですけれど。
笹木
物理の教授の助手ってどんなことをするんですか?
河東
実験の道具が手に入らない時代だったので授業に必要なものを探すのが仕事なのね。
そして、その日の授業に必要なものを整えて、自分も聴講するわけですよ。
先生と友人(助手)と3人で、授業が終ると国分寺の町をよく歩きました。
食糧難だったので、何か食べ物を探しながら町を歩くんですが、ある時蛇がいたんです。
先生はすぐに捕まえて殺してから、すましてボストンバックに入れて持ち帰ったんです。
後で、「あの持ち帰った蛇はどうしたんですか?」と、お聞きしたら平然と「食べましたよ!」って。
笹木
エッ!!!蛇を食べた??
河東
そういう時代ですよ。何しろ食料がなくて動物性タンパクが不足してましたから・・・・
笹木
祖母(巌の母)は何より蛇が嫌いだったのに、騙されて食べたのかしら?
河東
先生のお母様にもお宅に伺った時にお会いしてますよ。
戦後毛糸も手に入らなかったので、古い毛糸を蒸気で伸ばしてセーターを随分編みましたねぇ。
空襲で焼けなかった古いセーターをほどいてね。精一さん(三石巌長男)にもセーターを2枚編んで差し上げたら、(大学の)入学試験に着て行くと喜んでくれたのよ。
私も子育てが終ってから金曜日の勉強会に参加するようになって、また、定期的に先生にお会いするようになりました。
笹木
神田の学士会館でしたよね?毎月2回の勉強会は最後まで続けてましたね。
金曜の夕食は祖母が亡くなってからは母と二人で、手抜き料理や私の好きなものを作ってくれて・・・。今と違って外食をすることは無かったので、その時に始めて冷やし中華を食べました。
学校であったことを面白おかしく話すと、母はお腹を押さえながら大笑いして涙を流すのが楽しくて・・・懐かしい思い出です。
河東
先生は若い頃は外を飛び回っていたので、奥様はご苦労なさったと思いますよ。
奥様が大病をなさって、少し変わられたんじゃないかしら。
私もいくつか大学は変わりましたが、30年間教えてました。
物理学科ではなくて英文科なのよ。それで、最後は文理情報大学の英文科の主任教授だったので、夜しか時間がなかったのよね。学士会の勉強会は夜だったので、出席してました。時間があればその仲間と海や山に出かけ、夜には先生を囲んで読書会をしました。
日本ではまだ新しい分子生物学関係の本を沢山読みましたね。
先生とは随分スキーにも行きましたよ。
笹木
菅平の春スキーですよね?
菅平には年に何度も行くので、一式預けてありましたからね。
河東
学生時代にも誘っていただいたけれど、父が反対するので行かれませんでした。
ご一緒したのは子育てが終ってからですね。
最初は雪の上に立っただけで転んでばかりでね(笑)先生には「河東さんは滑れるようにならないかな?」なんて、言われましたけれど30年も一緒に菅平に行ったお陰で、運動神経の鈍い私でもそれなりに滑れるようになりましたよ。(笑)
笹木
私も大学の時に2度ほどお友達と一緒に参加したことがあるんですよ。
昔のスキー靴は革靴なので痛くないから、ウエアーを着てスキー靴を履いてリュックを背負って、列車に乗りましたよね?
そういう格好だから滑れたのか“せに下り”(背荷くだり??)と言って、帰りはスキー場から駅まで1時間くらいかけて狭い尾根を滑って降りてきたのが、一番の思い出です。
私のお友達は何度も転んで駅に着いた時にはウエアの膝やお尻が破けてました。(笑)
夜はみんなで頭脳ゲームみたいなことをしましたね。
河東
私はそんな難しい所には行かなかったわ。
笹木
話は戻りますが、学士会の勉強会は津田の卒業生だけだったんですか?
河東
いいえ。学校の先生とか名前は忘れたけれど何人か男性もいましたよ。
笹木
学士会の勉強会で分子栄養学の基礎が出来上がったわけですよね?
河東
そういうことになりますね。途中からは分子生物学の読書会でしたね。
そして、その仲間を中心にしてメグビーが誕生したわけですから・・・・
笹木
1979年に長崎出版から出た「動物が地震を知らせた」も、勉強会の成果だと思っているんですけれど・・・・。
河東
そうですね。
みんなで沢山の本を読みました。あの時のお仲間は誰も居なくなってしまって寂しいです。でも、今日は先生のアルバムやいろいろなものを見ることが出来て楽しかったわ。
笹木
それにしても河東さんはお元気ですよね。どこも悪いところはないんですか?
河東
頭!!!  他は元気だし、眼鏡も要らないんだけれど、頭がねぇ・・・・(笑)
先生は最後までお元気で、理想的な死に方でしたよね。
もし100歳まで生きてらして、人の世話になったりするのはお嫌だったでしょうからね。
100歳までの5年間、原稿も書けず講演もできないのは、お辛いでしょうから。
墜落死を望んでた先生らしい最後だったし、先生も本望だったと思いますよ。
多恵子(社長)さんたち家族の生活も心配のないようにして逝かれたんだから・・・・
笹木
そうですよね!
懐かしいお話を聞かせていただいて、楽しかったです。
蛇の話は最高でした!(笑)
どうもありがとうございました。また、遊びにいらしてください。

河東 あや 様:1924年生まれ 89歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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