衣笠様インタビュー

 衣笠さんは三石理論研究所の研究生の第2期生ということで、宿泊研修でも中心になって活躍していただいていました。
 父が亡くなったころからお仕事が忙しくなられ、疎遠になっていましたが、思い切って講演会へのお誘いのメールを出してみました。
 当時は予備校で、今は高校で英語を教えていらっしゃいます。私も懐かしい仲間とまた一緒に勉強することが出来るようになって嬉しいです。

笹木
今日は対談ということで、研究生だった頃の話をお聞きしたいと思っていますので、よろしくお願いします。
最初にお聞きしたいのはメグビーとの出会いですが、お嬢さんのご病気がきっかけでメグビーを始められたと記憶しているのですが・・・
衣笠
そうです。娘が小学4年生の7月に若年性関節リュウマチの疑いがあると診断され、夏休みに検査入院したんです。
その時に三石先生に毎週マッサージをしていた林スズエさんから、先生を紹介してもらって、電話でご相談したんですよ。
アトピーの治療の為にタンパク質を制限していたことなどを私が話した後で、先生は「活性酸素が悪さをしていますね。」と、これが私の耳に今でも残っている先生の第一声です。
数日後 、担当医に「活性酸素はどんなものですか?」と、聞いてみたんです。
「活性酸素?衣笠さん、試してみたらどうですか?」って、まじめな顔で言いましたよ。
笹木
全く知らなかったんですね?
何か民間療法だと勘違いしたのかしら?
衣笠
それを聞いて、こんなトンチンカンな医者に任せておけないと思いました。
大学病院の部長ですよ!
帰りに娘は、笑いを我慢するのが大変だったと言いましたよ(笑)
信頼できる先生なら「良く判らないので、調べてみましょう」と言うのではないかと思うんだよね。
検査入院はもう40日にもなっていたので、三石理論でやろう!と決断し、数値を知るためだけの通院に切り替えました。
笹木
父が活性酸素のことをよく言っていたけれど、私たちだけではなくお医者様も勉強してなければ、知らなかった時代だったということですね。
それから10年位して新聞で活性酸素の文字を見かけるようになって、今では当たり前のことになりましたね。
衣笠
今から25年くらい前のことだから活性酸素なんて言葉は市民権を得ていませんでしたからね。
退院後一時は悪化して、やっぱり医者が正しかったのか?と少し弱気になったこともありました。三石理論か医者か、私にとっては大きな賭けでしたからね。
でも、その年の大晦日に高熱を出したのが最後で4月には数値は正常になったんです!
しかも、アトピーも治りました(笑)
三石先生と始めてお会いした時に直感的な出会いを感じてたので、先生にお誘いを受けてすぐに木曜日の勉強会に参加するようになったんです。
初めての勉強会は1991年9月の第2木曜でした。
笹木
勉強会に出てどうでしたか?
衣笠
今までにない体験でしたね。
非現実と現実との差を感じた、というのが最初の感想かなぁ。
とにかく始めての言葉ばかりで強烈な体験でしたね!映画館から出てきたような感覚になりました。
三石先生の話を聞いて自分の生活を変えようと思ったんですよ。それで、積極的に参加するようになったんです。
笹木
研修会の企画も意欲的でしたものね。
衣笠
それにみんなと一緒に勉強していくことが好きだったので、宿泊研修も参加するのが楽しみでした。
先生とお話していた時に総合的な司会とか進行係ならやれますと言ったんですが、僕の能力も判らないのに、良く任せてくれたと思います。
笹木
だって、研究生になってからの話ですよね?
衣笠
いいえ。その前ですよ(笑)
伊豆の宿泊研修でお手伝いをしたり司会をしたりしてから、「研究生になりませんか?」と、先生に言われて、よし!頑張ろう、と思ったんですよ。
笹木
誰もが学ぶということに意欲的で、同じ思いの人たちが集まっているという連帯感があって、楽しかったですね。
衣笠
本当に楽しかったですね。僕は伊豆大学からの参加で勉強し始めて半年くらいしか経っていないのに司会をしたんですよ。札幌のSさんなんかも手伝ってくれたしね。
かえってゼロからのスタートだったから出来たのかもしれませんね。余分な知識が無いからね。それに若かったから意欲に燃えてたけど、今考えると無謀でしたよね。
先生はもっと僕の能力を確かめてからの方がよかった、って思ったかもしれませんよね。
笹木
父は失敗を恐れずに、何でも出来ることをやってごらんなさい、という人でしたから。
衣笠
とにかく、先生は勉強の場を作ることが上手で、参加した人たちそれぞれの能力を引き出すんですよ。
笹木
そういう場を提供することがとてもうまかったですよね。
それで、みんなやる気が出て、楽しく勉強できたのだと思います。
衣笠さんが企画してくださったのは伊豆大学、三三大学、森林大学?
衣笠
そうですね。
三三大学って名前は僕が考えたって知ってました?
森林大学なんていうのは会場が森林公園(埼玉県)だったということで単純に付けたんですけどね。
笹木
えっ!そうなんですか?
ネーミングの好きな父がつけたとばかり思っていました。
衣笠
聖隷三方原病院での三石先生の研修会だから両方の三を取って三三大学はどうでしょうか?って、先生に提案したら、「いいですねぇ!」で、即決です(笑)
それに、太陽がサンサンと輝くイメージだったんですよ。僕は事務局をやってましたからね。
笹木
なかなかいい名前を考えたんですね。
三三大学は聖隷三方原病院の栄養士さんたちや医師の本永先生、薬剤師のYさん、お医者様の卵だったS君など50人位参加して、本当に活気がありましたよね。
衣笠
あのころが一番燃えていて楽しかったなぁ!
予備校の教師をしていたので、1日減らしてもらって研究所の仕事を1年間しましたよ。
私としては早すぎたと思って1年で辞めさせてもらいました。まだ勉強不足でしたから。
笹木
三三大学の時のようなグループ学習をもう一度してみたいと、考えてるわけですよね?
衣笠
そうだね。専科(三石理論研究所の半田所長の月1回の勉強会)のあとの復習会もそんなイメージだったんだけど、時間も短いし中々難しいですね。
笹木
森林公園で研究生だけの宿泊研修も何度もしましたね。本になる前の「21世紀は存在するか」という、父の手書きの原稿をコピーして勉強しましたよね?手直ししながら勉強して結局「21世紀への遺書」という題名になって出版されましたね。
原稿の製本は衣笠さんがしてくださったと記憶しています。
衣笠
(対談依頼の)メールにそう書いてあったけど、ぜんぜん記憶に無いんだよね。
でも、確かにこれは(表紙に“笹木さん”との手書き)僕の字だよね・・・・・
(中を見て)あっ!思い出した!!
やった。やった。懐かしいなぁ。こういう製本の仕事もしたことがあるので得意なんだよ。僕は企画したり製本したりするのが好きなの。
宿泊研修は札幌のSさんと一緒にやったんだよ。懐かしいなぁ。
良く勉強したよね。
笹木
このメモを見ると出版社の方も出席してますね。
衣笠
原稿の読み合わせをしながら、みんなの意見を聞いて先生が書き換えていったものが出版された時は嬉しかったなぁ。
自分の気づかないところで細胞は努力してくれ、そこでは自分の意思は働いていないわけでしょ?
メグビーを飲むのはマクロだけれど、身体に入るとミクロの世界で勝手に働いてくれてるよね。
笹木
私達の年齢になっても元気でいられるのは、実践していることだと思うのよ。
衣笠
基本的なことを一緒に勉強する場が必要だよね。それと、笑うこと。
最近、笑いがいかに必要かということを感じているんだ!
どのくらい摂ったらいいんだろうかと難しく考えるより、細胞が欲しがっているんだから摂ればいいじゃない、と単純に考える人がいてもいいんじゃないの?
難しいことは解らなくても、ヒトフードは生命の基本なんだということだけは理解してもらいたいし、実行して欲しいと思うよ。だって、自分の身体のことなんだから。
笹木
勉強は熱心でも、それとこれとは別、みたいなことがあるのよね。
残念だけれど、それは仕方の無いことなのかもしれないですね。
宿泊研修の思い出などお聞きして、あの頃のお仲間とまたお会いしたいなぁ。と、とても懐かしくなりました。
今日はありがとうございました。

衣笠 弘志 様:1946年生まれ 67歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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