三石理論研究所 半田節子インタビュー

笹木
今日は強風で電車が止まってしまうかと心配しましたけれど、来て頂けてよかったです。
半田
対談ということなんだけれど、何から話してもいいの?
笹木
やっぱり津田塾での出会いからお願いします。
半田
私は記憶の悪い人間でよく覚えていないの。
笹木
そんな事言ったら、記憶力のいい人は居ないことになってしまうわ。(笑)
半田
何を話したらいいかと、ここに来る電車の中で考えてみたのよ。
最近、夏目漱石を何冊か読みなおしているんだけれど、「心」の中で主人公“私”が先生と尊敬する人が出てくるでしょ?
誰でも自分にとって先生と呼ぶべき人に出会うと思うけれど、三石先生が永田先生を尊敬してらしたように、私は紛れも無く三石先生なのよ。
知識を伝えてくださる先生という意味ではなくて、生き方そのものにかかわってくださった先生なんだな、と思いますね。
笹木 
そう思える人に出会えたことは幸せなことですよね。
半田
そうよね。津田時代は不勉強で先生には近寄らない人間だったんですよ。(笑)
でも、他の先生とは違って、三石先生には生活に即した物理を教えて頂いたことが印象に残っていますね。
例えばアイロンをかけていると、アイロンが熱くなるのは分子の熱運動だ。と先生が話されたことを思い出すの。そんな風に生活の中の科学を教えて頂いたから、ずっと心に残っていたと思うんです。
ひとことで言うなら、何かを考える時に「先生はこうおっしゃったな。」とか、「先生ならどのようにお考えかな。」ということを物差しにして考えている。
私にとって、三石先生はそういう意味での先生だと思うんです。
笹木
就職したのは出版関係でしたよね?
半田
先生は就職に関してとても面倒見が良かったんですよ。私は成績も悪かったし、それまでは先生に近づきもしなかったのに、みんなに付いて行って「就職お願いします。」なんてお願いしたんですよ。
ずっと後になって「何しに来たんだろうと思った。」と言われちゃって(笑)
それでも中教出版(旧:中等教科書出版)に入れて頂いたのよ。先生は中教出版で教科書を書いていらしたのよね。
笹木
あの頃のことはよく覚えています。忙しくて朝は迎えの車が来て、もっと忙しくなるとホテルに缶詰になって何日も帰れませんでした。
理科の教科書を書く人は父しかいなかったそうで、ものすごく忙しくて、急に白髪になったみたいです。
半田
先生に中教出版に入れて頂いたお陰で、半田と出会えたのよね。
笹木
そうそう、職場結婚ですものね。
半田
そうなの。本当に人生の道筋を付けて頂いたことになるわね。
そこでは著名な方たちをまじかに見ることが出来たし、川端康成のところに原稿を取りに行ったこともあるのよ!簡単に貰うだけで帰って来たなんて・・・って、今になって思うわよね。(笑)
笹木
凄い!確かに今思えば残念でしたね。
半田
もともと本は好きだったけれど、そこで本作りの人たちと知り合って、それが今の“インフォメーション”を書くことに繋がっていると思いますね。
面白く仕事をしてたのに仕事に対する自覚が無くて、結婚するのですぐにやめてしまったのね。それでも2年位はいたかしら。
自覚さえあれば、いろいろなことを吸収できる立場にたたせて頂いていたのにね。
結婚してからは二人の男の子を育て、両方の親の介護をしてきました。
その間に子供のPTAの役員を幼稚園から中学までやることになって、それが終ったら、世田谷の青少年委員を、という具合でした。
青少年委員は勤労青年のお世話でしたが、区の社会教育の人たちとかかわることになって、時折“社会教育”という雑誌に原稿を書いたりしていました。
そこで最初に対談(2013年2月)なさった長谷川さんと知り合ったのよ。
先生にお見せした“社会教育”の原稿や、中教出版での仕事からC社で広報担当を探しているからどうかと、先生が声を掛けてくださったと思いますね。
それが、夫が亡くなった一年後でした。
笹木
亡くなったばかりだったんですね。
半田
その前にクラス会があって、私の顔を見てタンパク質が足りないと思ったって。(笑)
その後、広報の仕事をしてみないかって言われたので「私には出来ません。」て、答えたの。そうしたら「出来ると思うから言ったんですよ。」と、そういう言い方をなさったの。
そのひとことが、今の私に方向付けてくださったことになりますね。
知識も経験も無くて飛び込んだのがサプリメント業界のひとつ、C社ですけれど、そこでは違った意味での社会勉強をしました。
ちょうどその頃、講談社から「高タンパク健康法」「ビタミンE健康法」「ビタミンC健康法」なんかが出た頃だったので、業界の人たちが先生に目を付けたんですね。
計算高い人達とかいろいろな人たちが先生の周辺に集まってきましたよね。
笹木 
業界は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界だと表現していましたが、翻弄させられた時期でしたね。見ていられなくて、何とか父の力になりたいと思いました。
半田
私の周辺でも業界の思惑とかいろいろありましたね。
先生はいろいろな会社とかかわりを持つ時には、アメリカから入ってくる健康情報をただ受け入れるだけではなくて、どういう裏づけがあるのか、きちんと把握して皆さんに知らせることが大切だとお考えでしたから、経営者とはいろいろあったと思いますよ。
そんな状況でも勉強会も仕事のうちと、先生のお宅の勉強会にも行かせて頂きました。広報といっても何も知らないわけですからねぇ。
笹木
「先生の処方で作ります。」と言われて実際に製品化されたものは、内容が違う、というようなことの繰り返しでしたから。
どの経営者にも「先生の希望通りのものを作っていては、利益が出なくて会社は成り立たない。」と言われ、頭を抱えていました。
半田
そんな中できちんとした製品は自分たちで作るしかない、という皆さんの気運が高まって、メグビーができたと思うんですよ。
笹木 
その準備ということで、研究所を作ったんですものね。
半田
C社に入社してすぐ情報誌を書くことになって、原稿は必ず電話で先生に聞いていただいて、という状態でしたが、内容よりもまず書き方からでしたね。
例えばその文章は長いから二つに分けた方がいいとか、主語をはっきりさせた方がいいとか文章を書くことへのアドバイスをして頂きました。
それが、先生のご本を読んでいると、文章はそういう風になっているんだということが段々判ってきて、とても楽しくて仕事というよりは勉強させて頂いたと思っていますね。その頃に教わったことが今になって、こういう事だったのかと、気づくことも多いのよ。
先生はまだ“複雑系の物理科学”とか“複雑さの科学”という概念がない時代に、そのことをお考えで本を書かれていたと思うのよ。
笹木
複雑系って、ようやく最近になって物理学だけでなく生命科学でも使われるようになった言葉ですものね。
半田
先生が亡くなられた後、研究所は先生からお預かりしたもので、私に後を継ぐなんて出来るだろうか?出来ないのではないか?という思いがあったけれど、何とか乗り越えられたのは複雑系科学で言う『自己組織化』という言葉に気がついて、先生の著作のなかにも、かかれているこの言葉が鍵になりました。
笹木
『自己組織化』?
半田
『自己組織化』って言うのは、多くの要素が相互作用することによって秩序が自然発生的に生まれてくる自然界の現象なんですって。
人工的に誰かが作るのではなくて、人が集まってお互いが相互作用することによって『自己組織化』という現象が生まれる、ということならメグビーもそういう形で出来た会社ではないかと解釈したんですよ。
それならば、先生が亡くなっても、先生を敬愛して集まった人たちがお互いに作用し合っていけばこれからも『自己組織化』して行く、と私の中では解釈できたんですよ。
『自己組織化』というのは複雑系の中の大切なキーワードなんです。
一人がやるのではなくて集まった人たちが相互作用するということは、仲間作りが大切だなと思うのよ。
先生は4人でも5人でも集まれば、(健康の)お話をなさいましたよね。
先頭に立って引っ張って行くのではなくて相互作用できるような仲間づくりをしたいと先生は常々思っていて、“ゲマインシャフト(友情で結びついた共同体)”という言葉を使われたのかなぁと思うんですよ。でも先生の思うような仲間作りをするのが、大変難しい世の中になってきましたね。
笹木
私たちが始めたころはまだ仲間作りのしやすい状況でしたからね。
半田
インターネットの普及で周りの人とは無関係で、自分は自分と思う人たちの中での仲間作りというのは大変難しくなってきましたね。
そういう状況の中で今まで通り“インフォメーション”や勉強会で繋いで行けるのだろうかということが、私の中では大きな課題というか心配事なんです。心配事というより問題と言った方がいいかしら?(笑)
三石先生ご存命の頃から先生を敬愛している人たちは、離れていきませんよね。私たちの中に先生がいらっしゃるから・・・
その方たちが私たちを刺激してくださるから、それに対して相互作用ができれば、形は違ってもやっていけるのかなと思っているんですよ。
それが次の世代に受け継いでもらえるのかが、大変大きな課題ですよね。
先生のご本を座右の書として読んでくださる方たちがいなくなるというか、本を読まなくなってきていますからね。
笹木
確かに本を読む人は減ってきていますから、父の本を読んで問い合わせをしてくるということは段々に少なくなってくると思います。
半田
話が前後しますが、全集(三石巌全業績 全28巻)を作ったことが私にとっては喜びでしたね。
きっかけは、先生が新聞や雑誌にお書きになった物の切抜きがものすごい量なので、「これを本にできませんか?」って、言ったんですよ。
出版して採算が合うだろうか、ということを(出版社は)当然思うでしょ?だから自費出版になりましたよね。その経済的な支援はメグビーにして頂きました。
全集に入れたかったのは『文明の解体』『大学の原点』だったんですけれど、その中に読まれやすい健康関係の本を入れたんですね。
『先生と私』の中で、いろいろの方が書いてくださったでしょ?
私の知らない方たちが先生を語ってくださったことは読んでいてとても楽しかったわ。
笹木
28巻が揃った時は、達成感があったでしょうね。
出版記念のパーティーの日の父はとても嬉しそうでしたね。
半田
本当に、ついこの間のことのようだわね。(笑)
先生に教えていただいたことを ひとことで言えば「自由に物を考えなさい」ということね。それは今の仕事にも関わることで、“医者の間での定説”“栄養学での定説”にこだわっていたら、気づかないことが多いんですよ。
「どうしてだろう?」「おかしいのでは?」と疑問を持つことで新しい情報にも出会うし、納得の出来る情報とも出会えるのね。
その情報を皆さんにお知らせしたくて、“インフォメーション”に書いているわけです。
笹木
そういう取り組み方で、“インフォメーション”は新しい情報が載っているんですね!
半田
講演会にお供すると、移動中やお食事の時とかいろんなことをお話しましたね。
その日にあった質問のことなどが話題になると「どう考えますか?」と、必ずお聞きになるのよね。私としては先生のお考えを聞きたいのに・・・(笑)
私が答えると「そこはこういうように考えた方がいいですね。」とか「もう一度考えてごらんなさい。」と、おっしゃいましたよ。
自分で考えることをしてきたから、今こうやって仕事が出来ていると思うんです。
いろいろなことを覚えて、そこから答えを出すなんて、80歳過ぎてそんなこと出来ませんよ(笑)
幾つになっても考えることは出来るのね。それが正しいかどうかは別として、“考えてみる”ということに力づけられてきたと思うんです。
“インフォメーション”を続けてきたことで、先生にご恩返しが出来たかな、と思っているんですよ。
笹木
インフォメーションは2013年12月で372号ですから、ものすごい情報量ですよね。特にお医者様は「無料でいいんですか?」と喜んでくださいます。
半田
私は夏目漱石が好きなんだけれど、漱石は野上弥生子に「文学者として年をとるべし」と手紙の中に書いたんですって。死ぬ時に恥ずかしくないような文学者として生きるようにと。それを先生に話したら「それは面白いですね。」と仰ってすぐに色紙に「学習者として年をとるべし」とお書きになったのよ。
笹木
野上弥生子さんもメグビーのお客様でしたよ。
創立当初のメグビーのお客様の中では一番の有名人だったので、覚えています。(笑)
半田
専科でも『三石理論を学ぶということは知識を学ぶのではなくて、人生を学ぶことだ。』と、お話ししても解ってくださるかどうか、わからないけれど、言わないわけにはいかないと思っているの。
「歳をとるとどうなるのか。」「どう老いるのか。」「どう生きてきたか。」「これからの人生をどう生きるのか。」ということと密着していますよね。
50歳から分子栄養学にかかわってきて35年経って思うことは、もし勉強していなければ、全く違う人生を歩いたということなの。
もし、100歳まで生きるとしたら、前半の50年と後半の50年とは延長線上にあるのではなくて、私は全く新しい人生を歩いたと思うのよ。それに、中身の充実度は多彩でいろどりがあったなと思えるんです。
“学校を出て、仕事をして、子育てをして、親の面倒を看る”という女の人生も50歳で完結したわけよね。主人は早くに亡くなりましたから。
それからは分子栄養学を学ぶということで社会とのかかわりを持つ、もう一人の全く違う新しい人生を生きるという両方の人生を経験させていただけたのよね。
それはやっぱり先生との出会いなんですよ。
笹木
確かにごく普通の女性としての人生ではなくて、50歳からは本を書いたり講演をしたりと全く別の舞台で活躍したことになりましたからね。
それを見て父は、《この勉強は子育てが終って50歳からでいい》とよく言ってました。
津田塾を選んだのはどういうことからですか?
半田
父は家から近い御茶ノ水大学に行くように勧めたけれど、当時のお茶の水はお下げ髪にしなければならなかったのが嫌だったの。(笑)三つ編みよね。
女学校の先輩と見に行った津田は外国のような、乙女心を満たしてくれるようなところがありましたね。武蔵野のキャンパスは広々としていて、とても素敵でしたね。
御茶ノ水にはどうしても行きたくなかったので、入試の日、何も書かずに答案を出したのよ(笑)
笹木
エッ!凄い!本当に?
半田
父は落ちたんじゃ、仕方ないなって、津田も受けさせてくれたのよ。(笑)
笹木
その頃、女の人が理系に進むことは、あまりなかったことですよね?
半田
そうね。父は建築家だったから津田に行くなら数学科にしろと。それが、入学してから物理化学科に転科しちゃったのね。(笑)だから、三石先生に出会えたんですよ。
笹木
自分の意思を貫いたわけですもの、凄いですね。
半田
女学校の3年の終わりはもう(学徒)動員だったんですよ。
津田に入った年に終戦で、急にアメリカの文化が入ってきましたよ。
映画は英語がわからなくても面白かったんですよ。
笹木
字幕は出ないんですか?
半田
出ないわよ。アメリカのまま来るんですもの。それに津田は英語の学校だからそれでいいと思ったんでしょうね。
優秀な学生がたくさんにいたし、共産党の闘士になった人もいましたよ。
「人生岐路あり」と先生が仰ったけれど、どちらを選ぶかで全く違ってくるわけでしょ?
笹木
確かに、どっちを選ぶかでその人の一生は違ったものになりますからね。
半田
夫を亡くしたのが早かったので、再婚話もあったけれど、もし再婚なんかしたらまた同じ人生を送るわけでしょ?
でも、学ぶということが楽しくて全くそんなことは考えられませんでしたね。
先生は沢山の方とお話されたわけだけれど、この人はこれまで、どんな風に生きてきたのかな?と話しながら思う、と、おっしゃったことがあるのよ。
先生は型にはまった成績のよい生き方には、興味を持たなかったように思いますね。
自分が老いるということを考えた時、先生のように“老化に挑戦する”という気持ちはないの。
この1、2年、自己運動的に身体の不調が起こってきた時に、面白くなってきたの。
「こんなはずではなかった」と思ったのは70代ね。
80歳を越したら、「こんなはずじゃなかった。」なんて思わないわけですよ。
でも、80歳までそんなことを考えないですんだのは、メグビーによる食生活の管理だと思うわね。
私は人生を振り返ってみて幸せだったと思うわ。
老化を楽しみながら、いつか体力がなくなって「THE END」が来ればいいなと思う、というのが今の心境です。(笑)
笹木
今日はありがとうございました。
女性が自分の意思を通すことは、難しい時代だったと思うけれど、貫き通して、そして、振り返ってみて「自分の人生は幸せだった。」と断言できることは素晴らしいことだと思います。羨ましいです!

半田 節子 様:1927年生まれ 86歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

インタビュー一覧に戻る