鎌倉組様インタビュー

石巌は60歳から健康に興味を持ち、健康関連の本を書き、80歳でメグビーを起業しましたが、若い頃は科学教育に力を入れていました。
考えるヒントを提供し自分で答えを導き出すように方向づけたのです。そのことから“教えざる名教授”と言われたそうです。その試みの一つが今回お会いした「鎌倉組」です。
1期生、2期生合わせて10人が寝食を共にし、教育を受けたのです。
理科教育の優秀な教師を選ぶことになり、三石巌、昨年話題になった“赤毛のアン”の訳者村岡花子、東大工学部の冨塚教授や理学部の篠遠教授らが選出したのが大分県立中津高女の教師で、彼女の教え子を鎌倉に留学させ「鎌倉組」が誕生しました。
私も子供のころ両親に連れられて何度も大分に皆さんを訪ねています。その頃の記憶が突然思い出され、懐かしさでいっぱいになりました。

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笹木
今日は思いがけず皆さんにお会いできてうれしいです。
最初に鎌倉組のことをお聞きしなければ、いけませんね。
蜂谷
選ばれた東野マサ先生は、女子の科学教育に力を注いでいて、中津高女に科学班を作り、発明協会に毎年発表して優秀な成績を収めていたので大分県でも有名でした。
笹木
村岡花子さんは父の所によくいらしてましたが、その時にご一緒したんですね?
当時の写真がここにありますよ。
尾家
三石先生の小学校の親友の坂本さんが財閥でね。教育費はみんな出してくれて、住まいも鎌倉の別荘を提供して下さったんです。三石先生は週に2日鎌倉までいらして、いろいろ教わったわよね。
戦争が酷くなってきたので、軍需工場に行かされそうな気配でね。でも富塚先生が東大の航空研究所にいらしたから研究員として入り込めば、大丈夫ということだったのだと思いますよ。預かった学生を徴用に行かせたら申し訳ないという苦肉の策だと思うんだけど、軍に協力することになるわけなの。
最初は鎌倉から駒場に通っていたけれど、危ないということで渋谷から通うようになったのよね。渋谷も坂本さんの持家だったのよね。
笹木
いつ頃のことですか?
昭和19年頃ですね。財閥が女子教育に財産を投げ出したわけです。私たちはおこずかいまで頂けたんですものね。
尾家
女子教育の意味は将来科学的な男の子を育てるためには、科学的なお母さんにならなければいけないということだったんです。
だけど、三石先生とお勉強して本当に楽しかった!!(笑)
数学なんかは休みなく3時間やるんです。ぶっ通しでも楽しかった!
蜂谷
散歩に行けばお寺の境内で木の棒を拾って数式を習ったりしたわね。
尾家
物理は教科書ばかりだったけれど、数学は楽しかった。基礎をちゃんと習っているから、質問にもすぐに答えられてどんどん進んでいくし、本当に楽しかった!
先生は教え方が上手だったからねぇ。オルガンがあってコーラスもよくしたわね。
先生の声はきれいなバスで、私たちに合わせてくださったわね。
尾家
ダンスも習ったわね。ワルツを(笑)
先生の歩き方はダンスをするようでね。坂本邸を歩き回ってたわよね。
尾家
先生との思い出は楽しいことばっかりよ。
昭和20年3月10日の大空襲の朝、大分に帰ってきたんです。
先生の息子さんが亡くなっていますよね?
蜂谷
家の中の火が消えたように寂しいってお手紙頂いたわ。
笹木
兄は生後8か月でした。父は暗いお墓に入れるのはかわいそうだと言っていつまでもお骨を家に置いていて困ったと母からよく聞いています。
蜂谷
だから多恵子ちゃんが産まれた時は大喜びでね。目の中に入れても痛くないというのはこういうことなんだと思ったわ(笑)
笹木
父から見れば私は孫みたいですよね。長男の時には抱きもしなかったのに、私の時にはオムツまで洗ってくれたって、母が笑ってました。
尾家
私たちが初めてお宅にお邪魔したのは戦時中で食べ物が何もない時だったのにみつ豆をごちそうになってね。甘いものが食べられるなんて、本当に幸せだった。
そして、先生がバイオリンを弾いて、おばさまがピアノで伴奏をして聞かせてくださったのよね。田舎者の私たちはホォーッ!って、感激してね。良いご夫婦っていうのはこういうものなんだね。って、言いながら帰ってきたのよね。(笑)
蜂谷
素敵だったわよね。結婚して初めてピアノを習ったのよ。って、おばさまが言ってね。
尾家
先生がゲートルをしたのを見たことある?
蜂谷
ない!ない!あのころの男の人はみんなゲートルだけどね。カーキ色の軍服みたいのも着たことないものね。
尾家
そうよね。いつも背広だったわね!
笹木
いくつになってもみんなで集まればその時の年齢に戻れて楽しいでしょ?
尾家
そうなの。だから今日も早く来ようと思ったら、あなたはお喋りで疲れるから早く来ないでよ。って、言われたのよ。(笑)
この仲間を作って頂いたことが、宝物なの。三石先生中心のグループですからね。このグループを作って頂いたことがどれほど幸せかわからないわ。
笹木
70年来のお友達ですものね。
尾家
10代からですからね。姉妹よりも近い位ですよ。
先生が飯田橋に連れて行って下さって、突然立ち止まって「東京駅はどの方向だと思いますか?」って質問したんです。感だけで左手で「あの辺!」って指さしたら「初めての東京なのに方向音痴じゃないね。」って褒められたのを覚えてるの。
私たちは東京大空襲の日に九州に帰ってきたんです。私が大空襲の前日に汽車の切符を貰いに行って、この切符を落としたらみんなが帰れなくなるからと、握りしめて赤坂から渋谷まで歩いて帰ったのよ。
笹木
責任重大ですものね。
尾家
あの汽車に乗れなかったら今はないわよね。次の汽車からはもう走らなかったから。
最後の列車だもの。
蜂谷
九死に一生を得たわけよね。
兵隊さんが汽車に引っ張り上げてくれてね。鉄のパイプにつかまっているので手が冷たいだろうって手をさすってくれてね。兵隊さんの顔はススで真っ黒だったわ。
蜂谷
良く生きて帰って来られたわよね。それに覚えている?
物のない時代だから自分たちの使っていた鍋や食器をじゃんけんして分けて持ち帰ったのよ。お布団は布が貴重だから中身は捨てて布だけリュックに入れて持ち帰ったわ。
蜂谷
下町は毎日火があがって、怖かったわよね。B29は立派なのに、日本の飛行機は小さくてね。
尾家
辛い時期を一緒に過ごして、怖い思いを一緒にしたから余計に仲良しなんだと思うわ。まずいものを食べさせてね。家でもしたことがない人たちが自炊するわけですから(笑)それなのに先生は私たちと同じものを食べて下さったの。あんなにまずかったのに、どんなに我慢して食べて下さったのかと、今思っても気の毒でしょうがないわ。
蜂谷
三石先生とは他の先生たちよりも接触することが多かったんです。先生には数学を習ったわね。
尾家
九州に帰ってきてからも終戦になったらまた戻れると思っていたから、銀行に勤めながらも微分解析の本を買って勉強したのよ。三石先生に褒められたい一心だったの。(笑)
きっとみんなは勉強していないから、私だけ褒められるって思ってね。(笑)それなのに、今は孫の数学を見ても何にも解らないのよ。(笑)
笹木
航空研究所ではどんなことをしていたんですか?
尾家
燃料が少なくなったので、魚の油から抽出する実験をしていたんですよ。その助手の助手の助手くらいかな?(笑)
計算をするように言われても、何の目的なのかは教えてもらえないのよね。
笹木
富塚先生は何をしていらしたんですか?
蜂谷
航空機の発動機の権威と呼ばれていた東大の工学部の教授よね。
それとロケットの糸川さんね。
笹木
あの有名な?
ずいぶん有名な方たちと一緒だったんですね。
笹木
篠藤先生はICUの学長になられたでしょ?小学生のころキャンパスの中にある先生のお宅に何度か伺ったことがあるんです。
大学ってこんなに広いんだってびっくりしたのを覚えてます。
今日は懐かしい方たちのお話がたくさん聞けて、本当に楽しかったです。
またお会いしたいです。みなさんどうぞお元気で!

蜂谷 千寿子 様:1927年生まれ 88歳(インタビュー時)
末 英子 様:1927年生まれ 88歳(インタビュー時)
尾家 恵美子 様:1928年生まれ 88歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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