金谷先生インタビュー

笹木
お久しぶりです。タイミングよく東京でお仕事があって助かりました。
金谷
一昨日「ガン医学会総会」の市民講座でアンチエイジングの話をした時、熱心に質問をしていた40代の女性に「三石先生をご存知ですか?」と声をかけられたんです。
「よく存じてますよ。私の人生は三石先生によって本当に変わりました。」と言ったんです。
薬剤師で私の話を聞いて三石先生を知っている方だろうと思ったというんですよ。
振り返ってみて、三石先生に出会わなければ私の人生は全く違っていたと思いますよ。
感謝ですね。
抗加齢学会の前の理事長は、一番最初に活性酸素を問題にした臨床医なので親しくさせて頂いてずっとお手伝いをしているんです。
抗加齢学会は活性酸素がテーマですから興味のある話が多いですが、ヒトゲノムが解読された2003年を境に変わりました。
次男は35歳になるんですが医者になると言い出して、河合塾に通っています。栄養と食事に強い医者になりたいそうです。受験問題で活性酸素が出てくるんです。でも「活性酸素種」と言わなければいけないと注意されます。
今、私は医科大学の臨床研究の倫理委員と、父の仕事を継いで医学部の解剖献体の会長をしています。
昨日も解剖献体の総会がありましたが、慰霊祭ですからとても緊張した空間なんです。
私は学生に「私達は若い人たちへのバトンタッチとして献体をするんです。山中先生が50年前の蛙の実験からヒントを得てiPS細胞を発見し、ジョンカートン先生の古い木に接ぎ木をして新たな展開をしました。若い皆さんもこれを接ぎ木として、将来立派な医師 になって欲しいと思っています。医学の理不尽なことを山ほど経験するでしょう。その時に皆さんの為に身体を提供した方がいると言うことを覚えていて下さいね。」と話しましたが、若い人たちにはどんなことがあってもくじけないで未来を開いてほしいと思いますね。
21世紀は食が医療そのものになると思っています。
放射能も活性酸素対策ですから、あの事故が起こった時に、私はこの為に生きてきたと思いましたね。放射能にはとても対抗できないけれど、もしかしたら道は開けるかもしれない、栄養の問題を抜きにして未来は突破できない、と思いました。
話しが飛びますが、父が老人性掻痒症になった時、私の言うとおりにやってみると言うので、メグビーのA、E、Cを飲ませたら見事に良くなったんです。
笹木
それは先生にお電話いただきました。
金谷
母は、亡くなった日もメグビーのビタミンEを飲んだんですよ!
いよいよ大変な時期に来ていましたから、「どうする?飲む?」と聞いたんです。
殆ど言葉になりませんでしたが「三石先生のだね?飲むよ!」と言って最後の日の朝も飲んだんです。
私の経験ですが、ビタミンEをうまく使っているとご遺体がとっても綺麗なんです。
笹木
そんなことがあるんですか?
私は先生が仰ったことでとても記憶に残っていることがあるんです。
ひとつは、お父様が亡くなる前に「僕が死んでも泣いてはいけないよ。それは襖の向こうに行くことと同じで、悲しいことではなくて神様の所に行くことなんだからね。」って仰ったことと。
「学生たちが本物を触れるように父を骨標本という形にしたので、いつでも私は父に触ることができるのよ。」って、嬉しそうに仰ったそのふたつのことが忘れられないんです。
金谷
ワッハッハ!骨標本って、まるで父そのものなんですよ!!
三石先生はヴァイオリンやピアノや絵とかいろいろなさいましたけれど、音楽や絵が最後に目指すところはサイエンスだけでなく、心がないとダメだと思うんですよ。
三石先生はそういう生きざまをされていたと、改めて思いました。先生は殆ど自己流でなさったんでしょ?
笹木
そうですね。エレクトーンはヤマハの音楽教室を最初に作った方が、メグビーのお客様で、その方に暫く習っていました。エレクトーンをパイプオルガンに改造して頂いて、原稿を書いてはエレクトーンを弾くという毎日で、それがストレス解消だったんでしょうね。
金谷
先生の文章は勢いがありますよね。熟慮に熟慮を重ねて、という書き方ではなくて勢いがあるんですよ。量子力学的な所はきちんと押さえていますからね。
最近主人が先生の本を読んでいて、「一般的にはこうだ。」と書いてあるけれど、この“一般的”というのは何を意図していたんだろうかと言うんです。
医者は違うのではないかという中で、“一般的には”という言葉があったんです。
先生は“言葉の定義”についてよく話されていたけれど、先生の一般論の中には“量子力学”の視点があって、それが世界のルールであるのに、医者たちのやっていることは違っているよ。と言っているのではないのだろうか、と私たちは理解したんです。これがごく最近の我が家の会話なんです。
医者というのはサイエンスではなくて経験論的なことが非常に強いですからね。
“先生はこの言葉をどういう意味で使ったんだろうか?”とか、“三石先生だったらこんなときどうするだろう?”ということが、我が家ではよく話題になるんですよ。
それから主人は三石先生の伝記は「面白い。」って言ってますよ。
笹木
先生ご夫妻の中に、父は生きていますね。とても嬉しいです。
先生のお宅は今も健在ですね?
金谷
ドームハウス?ええ、健在です。先生と皆さんと写した写真が飾ってありますよ。
笹木
父がとてもドームハウスに感動してましたから。
金谷
三角のパネルを組み合わせて60面体のドーム型にした建物で、最も強い形だと言われているんですよ。
私が尊敬する先生で息子も取り上げて頂いたんですけれど、彼が「老後はITさえあれば生きていけるね。僕たちは人が羨むような老後を過ごそうよ。われわれがモデルにならないで誰がなるんだ。」っていうんですよ。今は北海道で高齢者の病院の医者をしているんですが、ITさえできれば生きていけると。
笹木
確かにうちの中に引きこもっていては社会から隔離されていきますものね。
金谷
肉体的な老化はストップできませんが、三石先生のように知的なものは出来るのではないかと思うんです。最低限の情報をキャッチしなければ、ボケ老人になってしまいますからね。三石先生のように生涯現役でいたいですから。
でも、笹木さん言ってましたよね。「怖くて、怖くて、スキーしているのは見ていられないのよ。」って(笑)
笹木
もっと気持ちよく行かせてあげればよかった、と後悔しています。(笑)
「なぜ行くの?もうやめたら。」って、そんなことしか言いませんでしたから。
やりたいことをさせてあげればよかったです。
金谷
でも、先生はやってらしたじゃないですか。(笑)
笹木
軽井沢は20年も行ってましたから、日程は言わなくても解りますけれど、私が嫌な顔をするので、他の所に行くのは前日まで言いませんでしたね。
夕食が終わって帰るときに「明日からスキーだから夕食は要らないよ。」って、初めて言うんです。(笑)
金谷
最後に先生にお目にかかった時に「金谷君、インフルエンザはDNAをズタズタにするから怖いんだよ。」って言ってたのにねぇ。
最初にお話しした神戸で会った方も「先生が亡くなったと聞いた時、ものすごく悲しくてがっかりしちゃった。」って言ってましたよ。
生涯現役ですもの。2週間だけの入院ですから、それで良しとするしかないですよ。
笹木
私も若かったので年寄りなんて意識もしなくて、息子達と同じ食事でしたが嫌がらないし、お刺身が食べたいとか、軟らかい方が良いとか何も言いませんでした。
外食でも和食が良いとは言いませんでしたね。やっぱりお肉でした。
金谷
それがよかったんですよ。年寄りだけで暮らしている人は老化しやすいです。若い人と暮らしていれば若い人中心の献立で、量を少なく食べればいいんですよ。
先生も皆さんと一緒だからよかったんだと思いますよ。奥様と二人で暮らしていたら、老化してましたよ。
笹木
母と二人の食事だったら、話すこともないし、刺激もありませんものね。
歳をとってもご夫婦が揃っている方が羨ましいと思ってましたけれど、それだけではないのかもしれませんね。
金谷
夫婦であっても、それぞれが自立していることですね。最後の瞬間まで自立して輝くということが重要で、知的好奇心を持つということですね。
身体は化学反応ですから、サイエンス性とアート性を持っていることは絶対条件で、サイエンス性を無視して好きなものだけ食べているのは、死に向かっているだけですよ。人間も鮭も同じで、子供をつくるまではそのようにプログラムされているけれど、それ以降は死ぬプログラムだと私は思っているんです。
自分が思うように食べていれば死の方向に行く。それをストップさせようと思うから勉強しなければならないわけだし、身体に必要なものは自分でわかるという人がいますけれど、「それは死への行進ですね。」って意地悪く言うんです。最後の瞬間までサイエンスで、生体はまさに化学反応を起こすわけですからね。《化学反応に必要なものを自分の身体に入れること》これに尽きると思います。だから死ぬまで勉強です。
三石先生のように知的好奇心を持って生きるということは凄く重要だし、私はそうありたいと思っています。
我が家は先生の本が何冊かありますでしょ。お友達が興味ある様子だったので、「三石先生の本をあげるのが一番いいんじゃないの。」って言ったら、「あげないでくれ。」って主人が言うんですよ。「同じ本が、何冊もあるんだから1冊だけあればいいんじゃない?」と言ってもダメだっていうんです。 (笑)
笹木
そうですか。(笑) 三三大学(宿泊研修)の時には、聖隷(三方原病院)にも泊めて頂いたけれど、S君たちは先生のお宅に泊めて頂いたんですものね。
金谷
S君とはいまだに交流していますよ。
笹木
私も五島列島に行った時にS君の社宅に行きました。五島にお家を建ててもうこちらに戻ってくることはないですものね。
金谷
私もそろそろ行きたいと思っているんです。伊勢海老のお味噌汁を作ってくれたんですが、めちゃくちゃ美味しかったですよ。
S君とも対談されたらいいじゃないですか。行ってきたらいいですよ。
笹木
S君は医学部を中退して他の仕事をしていた時に父の本と出合って、もう一度勉強しなおしてお医者様になったんですから、話を聞いてみたいとは思っているんです。
受験の時にもメグビーFの量を増やすと頭がさえると言っていましたけど、もともと優秀だったと思いますよ。
金谷
S君は東大に入ってお友達を何人も連れてきましたよ。医学部の人だけでなく他の学部から医学部に移った人の話を聴いていたので、息子は医学部に行きたいと思った時にS君に相談に行きましたよ。「みんな賛成してくれるのに反対するのはお母さんだけだよ。」と帰ってきて言われました。(笑)
主人が先生の出ている雑誌を見つけて、「お前と同じような考え方をしている人がいるよ。」と言って見せてくれたんです。びっくりしてすぐに先生をお訪ねしたんです。
笹木
先生のことを何かで読んで、父が連絡したのかと思っていたんですが、違うんですね。
金谷
“クォーク”だったかしら?科学雑誌でした。
宿泊研修は伊豆大もトマムも参加しました。
その時に聖隷三方が原病院でやれば病院の管理栄養士達もみんな参加できるので会場を提供するという話になったんだと思います。
トマムは朝から羊羹やお饅頭が出てきてね。私たちは野菜が食べたいので、町まで買い物に行きましたよ。
笹木
そうだったんですか。(笑)
何しろ甘党でアンコをご飯にかけて食べたいって言うくらいですから。(笑)
おはぎは丸めただけだから同じだって言って。ほんとに好きでしたねぇ。 (笑)
金谷
当時インスリンを、忘れることもあるって言ってましたよ。
笹木
最後は風邪を引いてだるかったのか、注射もしていなかったようです。
金谷
多分その頃は朦朧としていたと思いますよ。でも、生涯現役ですから、ご本人は満足ですよ。
笹木
アイスクリームやヨーグルトにプロテインを入れて口に運べば食べるという状態でも、何ていうか、父は死なない人だ、としか思っていなかったので、愕然としましたけれど、仕方ないですね。あそこまで元気で生きられたのですから。
金谷
そうですよ。95まで現役で、最後にスキーもおやりになったんですから。
今でも光り輝いてますよ!私達がいつまでも先生のことを考えているんですもの。
笹木
皆さんの心の中に生きているということは、幸せなことだと思います。
金谷
先生が勉強会の中で「人は何故、非人間的になれるのか。」と言われたので、栄養士の採用試験でよく使いました。それはフランスのバカロレアの試験問題なんです。
事務の人に、なぜこれが専門的な質問なのかと聞かれ「私たちは人の生命にかかわる仕事だから、人間の存在とは何かということが考えられること、答えがどうかではなくて、考えることが必要なんです。」と言ったんです。
先生が言われたように“対象を組み立てる”という言葉は今でも、常に口から出ます。
若い時に出会っていたら、もっと影響を受けたかもしれませんが、私たち夫婦は本当に感謝しています。
先生が「21世紀への遺書」を書いていた時「金谷君、健康だけでは生きていけませんよ。まさに環境問題です。」と。まさにその通りですよね。原発があんな状況になっても、今まで通りの事しかしない医者がいるわけです。この医者たちは戦火の中でもこんななんだろうかと思うんです。だから対象を組み立てて分解して再構築することの大切さを思います。
死んだら又、先生にお目にかかれたらこんなうれしいことはないと思いますよね。
「あなたは生涯、何を頑張ってきたのかな?」って先生に聞かれそう。(笑)
金谷
私も父ならどう考えるだろう?と、思うことばかりなので、聞きたいことはたくさんあるんですけれど(笑)
今度は勉強会か講演会をお願いできればと思うので、その節はよろしくお願いいたします。
今日はどうもありがとうございました。

金谷 節子 先生:1945年生まれ 70歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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