真鍋和子様インタビュー

真鍋さんは大学1年の同級生です。2年で転科したことも児童文学の道に進んだのも、父の影響だったことを初めて知り驚きました。何気ない会話の中で、いつの間にか真鍋さんを作家の世界に誘い込んだようです。ちゅら海水族館の人工尾びれのイルカの話は読みましたが、子供向けの物は真鍋さんが書かれたそうなので、機会があったら読んでみようと思っています。

笹木
お久しぶりですね。先月(2月)がメグビーの35周年だったけれど、私たちも今年で70歳。“光陰矢のごとし”というけれど本当にあっという間でしたね。
私は人生のちょうど半分をメグビーと共に歩んできたと言うことになるのよね。(笑)
真鍋
本当にねぇ。私が先生に初めてお目にかかったのは清泉に入って「生活科学序説」の講義を受講した時ですね。多恵子さんも取ったでしょ?
笹木
母が父親はどんな講義をするか聞いた方が良いというので、取りました。(笑)
自分も父親の授業を受けたけれど、家庭での父親と女学校での父親の違った面を見られて良かったからと言うんですもの。
真鍋
三石先生は一度も休講なしでしたね。
1時間目で遅れないようにあの急な坂を登って、しかも4階で大変だった。(笑)
各学部の1年生のほとんどと、シスターも受講していたから300人位いたかしらね。
科学的な根拠を持って体調などを判断することもお話しなさったわね。
笹木
あなたは2年生で国文に転部したでしょ?
真鍋
三石先生の影響かな?
1年の時のサークルはESSで、ランチタイムに英語で話す位なんだけれど、英語漬けで喜んでいた時期だったので、三石先生と個人的にお話することもなかったわね。
笹木
では、“めるひぇん”のサークルに入ったのは、かなり後なのね?
真鍋
そうなの。英語と言っても稚拙なことしか言えないわよね。それで物足りなくなって熱が冷めてきた時に、先生が講義の後で“めるひぇんの会”という児童文学の同人誌のサークルのことを話されたの。
「書くということは素晴らしいことで、女性の生きがいになりますよ。」と。生きがいがあるって素晴らしいって、心を動かされました。
それで、私も参加したんです。そこでは、私たちが書いたものを読んで、それを聞いて先生が批評して下さるわけなの。
笹木
皆さん卒業してからも続けていて、ずっと父と関わっていたでしょ?
真鍋
三石先生はいくつも勉強会や読書会を持っていらっしゃり、そのお仲間や津田の卒業生たちとのスキーに誘われて、菅平に何度もご一緒した時でした。
いつも岡谷駅で10分位停車すると、ホームから土蔵がずっと続いているのが見えるの。
実家はお寺だから土蔵なんて珍しくもないのに妙に気になって、先生にあれはなんですか?ってお聞きしたら、今は味噌蔵だけれど、昔は繭の製糸工場だったと教えて下さったのが、処女作「千本のえんとつ」との出会いなんです。
先生には「原稿を書きなさい。」と言われていたけれど、ここからが先生の策略よね。(笑)私がとても興味深く見ていたからでしょうけれど・・・
でも私は先生の策略にのせられたことが幸せだったし、感謝してるのよ。(笑)
岡谷には製糸工場があって10歳にも満たない少女達が周りの村から連れて来られて、今でいう児童労働ですよね。そういうことを先生が話して下さったのね。そんな歴史があったということに凄い衝撃を受けたんです。
学校にも行けず、働かされた少女達がいたということがすごくショックで、私でも調べたら少女たちのことがもっと分かるかもしれないと思ったの。
笹木
何か書いてみようと思ったから調べたわけよね?
真鍋
最初は調べないで想像だけで書いた、稚拙な作品を先生にお見せしたんです。触発されたのは当時ベストセラーになっていた山本茂美の「ああ野麦峠」なの。
ここからが三石教育なんですけれど「製糸工場で働いた人たちがたくさんいるはずだから、取材をして書けばいいんですよ。」って、アドバイスを頂いたわけです。
自分が物を書けるなんて思ってもいなかったけれど、書くことは憧れでしたね。
本が好きだから教師になるとか、図書館の司書になるとか、そんな生き方が出来ればいいと思っていたのね。
先生のお宅が近いこともあって、伺うようになったの。
先生の魅力は、昔からの因習に囚われないで、ひとつひとつ科学的にきちんと物事を確かめて明らかにして、そこで得た知識で判断すること。誰が何を言ったとか、世間ではこう言っているとか、ということには囚われないのよね。
まさに、私が初めて出会って影響を受けた科学者でした。
“科学は人間の内面を自由にする”と言う言葉が心に残っているし、受け売りをせず自分の言葉で語ること、書くこと、想像することは素晴らしいことだと話してくださいました。
先生のお話を聞いていたら目の前が明るくなって、自分で調べて得た知識で判断をして、自分の責任で書いても良いのではないかと思うようになったわけですね。
少し話がそれるかもしれないけれど、1960年代の末から70年代は大学紛争、安田講堂事件などがあったけれど、そういう情況がメグビー誕生の時代背景としてあると思うの。
当時、自由な研究会がものすごく盛んだったのよね。先生だけではなくて、色々な所でやっていたことが背景にあると思っているのよ。
笹木
そんな時に父は学生を集めてはいろいろやっていたので、大学としては脅威だったと思うのよ。何度か学長に呼ばれて父が何か企んでいないかと聞かれたもの。
真鍋
そんなことちっとも知らなかったわ。じゃあ、あまり居心地が良くなかったのかしらね。
私が作家として、生きて行こうと決意した背景にもなるけれど、日本の社会全体、文化も演劇も絵画も音楽も学問の世界ももちろんそうだし、科学で証明できないことでも恩師の言う事には従わなければならないという風潮がまだ残っていたと思うのよ。
でも、間違いは、間違っていると言える時代になってきて、それは、先生が若い時から求めていたことだと思うし、干からびた権威を否定していらしたと思うんです。
アメリカから文献を取り寄せたり、論文を読むという勉強の仕方でしたよね。
先生は、恩師がこう言っていたからその中で生きて行くとか、研究者として出世をするということではなくて、学者として歩まれたと思うんです。
そして、その時代の学生たちにエールを送っていて、いつも私たちの見方でしたね。
学生は学生なりに、社会人は社会に対しての疑問をいつも受け止めてくださいました。
勉強しようとする人に対して先生は本当に応援してくださいましたね。
笹木
お寺さんに生まれて、なぜカトリックの大学に入ったの?
真鍋
私の実家は、四国八十八か所の札所で真言密教の寺ですが、お遍路さんの心の拠り所として日々明け暮れていてね。弱者救済の思想というか、そういう行いを実践することが、とても大事だと父からよく聞かされていたの。それって仏教でもキリスト教でも共通する宗教の普遍的価値観ですよね。だから違和感はなかったわ。
父も娘たちをキリスト教の学校に入れたかったのよ。清泉をとても気に入って、ここでなければ学資は出さないって言われちゃったわ。(笑)
笹木
私たちの入学は1966年でしたね。
真鍋
そう、早稲田大学の学資値上げ反対闘争から始まった大学民主化の闘いが全国に吹き荒れた時期だったけれど、清泉学内は静かでしたね。
でも兄弟が東大とかの学生だったりした人も少なくなかったから、学外の動きを気にしていましたよ。
私も卒業したら就職するんだから、社会の動きには関心があったわ。学生たちが「もっといろんなことを知りたい」と三石先生に打ち明けると、御宅で「岩波新書を読む会」という読書会を立ち上げて下さったのよ。
『明治維新と現代』(遠山茂樹著)や『ヒロシマ・ノート』(大江健三郎著)とか、なつかしいわ。
結構難しい内容で、私は一行一行きちんと読み取っていく本の読み方の基本をここで学びました。
レポーターになったらもう大変。他の資料も読まなければとね。
三石先生は、学生たちにこういう形で勉強の機会を与えてくださったのね。
先生は、物事を知らない者に対して、実に丁寧に接してくださいました。
笹木
児童文学創作の会「めるひぇん」で作品を書いていたでしょ?
真鍋
短編中心でしたが、同人誌に掲載した作品がポプラ社の編集者の目にとまって、長編に書き直してみないかと言われたの。
お宅には、先生への原稿依頼で、講談社やポプラ社などの編集者が多数出入りしていましたね。奥様はお茶を出すので忙しくしていらした。
当時『ビーグル号航海記』を翻訳出版されて、名訳だと評判が高かったんですよ。
ちょうど多恵子さんがお里帰りをしていた時でね。パイプオルガンの横にベビーベッドが置かれていて、玉のような赤ちゃんを抱っこさせてもらったのよ。
笹木
『千本のえんとつ』の取材で、岡谷に泊まって当時の話を聞いたんでしょ?
真鍋
先生のご親戚のお宅にスキーの帰りに連れて行っていただいたの。
ご主人は内科医だから生糸女工さんたちの健康診断や病気の時には薬を出していたので、工場や女工さんの様子を詳しく話してくださったの。
近所には、70代のおばあさんたちが手繰りで糸をとる工場がまだ残っていたし、博物館や機械でやっている工場にも連れて行ってくださったのよ。
奥さまにもとても良くしていただいたわ。
笹木
おとなしくて優しいおばあちゃんだったでしょ。
真鍋
翌日には工場で知り合ったおばあさんの自宅に伺って、若い頃の女工時代の話を聞かせてもらいました。
本当に純粋で少女たちの立場でご自身が見てきたこと、感じたことを話してくださいましたね。
笹木
貴重な体験でしたね。
真鍋
このときの取材で得たことをどう作品化していくか、悩みながら、夢中で文章化していったの。
作品が出来上がると、出版社に渡す前に、先生にみていただきました。
先生の指導法は、とてもシンプル。
原稿を音読しなさいっていうだけなのよ。すると、書いている時は気が付かないけれど、声を出して読んでみて突っかかるところ、うまく繋がらないところがすぐに解るのね。
「ああ、ここおかしいですね。」って言うと「そうですね。」と頷かれるのよ。そういう時の先生の表情、いまでも目に浮かびます。(笑)
この繰り返しで出来上がったのが、『千本のえんとつ』なの。
ノンフィクションの文学を子供に読ませようと、児童文学の業界が活気付いてきたし、大人の物もノンフィクションのジャンルが関心を集めてきた時代でしたね。
児童文芸新人賞を受賞したとき、先生も来てくださいました。その後、大学図書館の司書、中学や高校の国語教師をしながら、ずっと書き続けています。書くことが、私の生きがいになったのよ。
笹木
父とのやり取りが土台になっているんですね。
真鍋
日大芸術学部で講師をしていたとき、ゼミでの作品指導は、もっぱら三石方式でいきましたよ。体験的にこれ以上良い指導法はないと確信していますから。
「受け売りをせずに自分自身の言葉で書きなさい」って言われたことも忘れられないわ。
先生は人間の創造する力を最も高く評価されていて、それを自らも実践していらしたのよ。
健康問題や科学の研究会を持っていらして、多数の論文を取り寄せて理論的な構築や検証を積み重ねていって、それをご自身の言葉で語るという作業を繰り返しなさっていましたね。それが後々三石理論を誕生させ、「メグビー」へと繋がっていったのではないかと思っているのよ。
「ビタミンE健康法」「ビタミンC健康法」は、私も若いときから影響を受けたわ。
そして忘れられないのは、私たちにいつも自信を持たせてくれたことが、どんな時でも前向きに生きていける力に繋がっているのだと思います。
私にとって、三石先生は真の恩師ですね。
笹木
今日はどうもありがとう。これからも子共たちが興味深く読めるような本をたくさん書いてくださいね。

真鍋 和子 様:1947年生まれ 69歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

インタビュー一覧に戻る