長年愛用いただいているお客様と弊社代表笹木多恵子との対談。

第7回村瀬 友二郎 様 (70歳)

これで救われるぞ!という感じがしたんですよ。

笹木  今日は広島から東京の講演会(2013年4月13日)にご出席いただきどうもありがとうございました。
参加者名簿の中に村瀬さんのお名前を見つけて、懐かしくて早速ご連絡をしてしまいました。
ちょうど15年ぶりにお目にかかったことになりますね!
本当にお久しぶりです。

村瀬  勉強から随分離れていたので、もう一度勉強したいと思って申し込みました。

笹木  宿泊研修でいつもご一緒でしたから、とても懐かしいです。あれから30年ですから、私たちも随分若かったんですね(笑)

村瀬  本当についこの間のような気がしますねぇ。
子供たちは小学生だったのに同じ年頃の孫が居るわけですから・・・

笹木  村瀬さんはメグビーの最初からのお客様なんですよ!
まず初めに父との出会いを話していただけますか?

村瀬  先生の「ビタミンE健康法」(講談社1976年発刊)「ビタミンC健康法」(講談社1977年発刊)を本屋で見つけましてね。
本を探すきっかけは家内なんです。35年位前から筋無力症やひどい頭痛に悩まされていましたので、何か解決法がないかと本を探し回っていたんですね。そんな時に、先生の本に出会ったんです。
病名も付かなかった病気なんですが、医者は物理療法をやってました。
先生の本は読んだら明解で、これで救われるぞ!という感じがしたんですよ。
早速先生にお電話してしまいました。
それで、先生のお宅に伺っていろいろお話をしました。
家内はひどい頭痛だったんですが、改善されてとても喜んでいますよ。

笹木  その時私も同席していたのを覚えていらっしゃいます?
そこで、メグビードリンクの話が出たんですよね?

村瀬  そうでしたね。
初めて先生にお目にかかったときに子供が飲めるビタミンBのドリンク剤のような製品が欲しいと話したんです。
提案はしましたが、まさか製品にしてくださるとは思っていませんでした。
メグビードリンクが出来た時には、正直ビックリしました。
軽く言ったつもりだったものですから・・・

笹木  液体では輸送が大変なので、粉のもので考えてみましょう。と、父が言ったように記憶しているんですが・・・

村瀬  そうでしたね。

笹木  ビタミンB以外の内容についてはどんな提案をなさったんですか?

村瀬  いや、それだけです。私は何も知識はありませんでしたからね。

笹木  創立30年になったので、講演会年表を書き出してみたんです。
その時に、スカラー通信(“にゅーす あらかると”の前の通信物)の行事日程を見たら、一番最初の講演会が村瀬さん主催で1982年9月14日に広島県呉市の折本マリンビルでした。
でも演題は解らなかったんですが、覚えていらっしゃいます?
翌年の5月14日の講演会では“学習の分子栄養学”の演題で話しているんです。

村瀬  そうでしたね。演題はちょっと・・・・
でも、DNAの話を一番覚えています。DNAなんて初めて聞きましたから・・・

笹木  そうですよね。今では当たり前になってますけれど、私もDNAと言う言葉に、とても興味を持ちました。

村瀬  その後日本平の宿泊研修会(1984年3月)には子供たちを連れて家族全員で参加しました。

笹木  その時に奥様にもお目にかかっているんですよね?
当時は私たちと同年代の方が多かったので、子供連れで参加する方が多かったですね。
村瀬さんの一番上のお嬢さんが年が離れていて大きかったので、子供たちの面倒を見てくださって、動物園にも連れて行っていただいたと記憶しています。

村瀬  その後何回か研修会に参加した後、山中湖の宿泊研修会に参加したんですね。
大恥かいたんで、山中湖が一番覚えているんです。(笑)

笹木  えっ!何かありましたっけ?

村瀬  研修会の1ヶ月ほど前に先生から電話があって、大学で何を勉強しましたか?
と言われたので、「かじったのはペスタロッチ(スイスの教育実践家)です。」と答えたんです。
そしたら、「研修会で勉強したことを少し話してみませんか?」と言われたんですね。
話し終ったら、先生が拍手をしながら「お粗末でした。」と言われたときにはショックでしたね。

笹木  知りませんでした。みんなに聞こえないように小さな声だったんですよね?それは失礼ですよねぇ。申し訳ありませんでした。

村瀬  いやぁ~
本当にお粗末でしたよ。でも、楽しかったですね。
僕にとっては忘れられない思い出ですね。

笹木  それは失礼ですよねぇ。申し訳ないわ。
当時は参加した方たちが勉強したことを講義しましたね。ドイツからの参加もあって
あの頃は、本当に賑やかでしたね。
勉強することが楽しくて仕方がない。と言う方たちばかりで、講義も夜遅くまで聴いて、その後も、またみんなで話し合ったり、ギターに合わせて歌ったり、懐かしいですね。
年に2回の宿泊研修を皆さん楽しみにしてくださって、同じことを学ぶ仲間がいる喜びみたいなものがありましたね。

村瀬  先生の本を読む前に杉靖三郎さんのビミンEを摂ることによって健康レベルがあがったと言うような本を読んだんですが、フ~ン!で終わってしまったんですね。
でも、先生の「ビタミンE健康法」を読んだ時に、ビビッ!と来るものがあったんですね。
「ビタミンE健康法」と「ビタミンC健康法」を続けて読んだことで、理解が深まってよかったんだと思いますね。
8月の箱根の夏の大学(宿泊研修の名称)の時に先生と廊下を歩きながら「ビタミンE健康法」について質問をしたんですね。その時の対応が楽しくて、先生に引き込まれていきました。メグビーを飲んで健康レベルを上げたらみんなが幸せになるだろうから、皆さんに薦めたいと思ったんです。
呉市歯科医師会館での講演会に参加した高校生が野球部のキャップテンだったんですが、膝軟骨が擦り減って歩けなくなった。と、先生に相談をしたんです。
先生のおっしゃるとおりにメグビーを飲んで2ヶ月で歩けるようになりましたよ。
そのことは勉強会のときに皆さんに話しました。

笹木  皆さんに喜んでいただけると嬉しいですよね。

村瀬  そうですねぇ。
他には突発性難聴になった方がいて、先生にすぐに電話で相談したんですよ。
そうしたら、造影剤を注射してもらうようにと言われ、知り合いの病院に頼みましたが、医者は効くはずはないけど・・・と言いながら、それでも注射をしてくれましてね。
効きましたよ!本当に治ったんですよ。
僕の良く知っている医者でしたが医者もびっくりしてましたよ。

笹木  そうでしたね。ベンゼン核にヨードの入っている造影剤が何とかって言ってましたね。
それからは突発性難聴の方のご相談では、話していました。
創業当初からお飲みいただいている方たちはご高齢になられていますけれど、村瀬さんは幾つから飲まれています?

村瀬  僕は早かったですね。39歳の時からです。

笹木  お互い若かったんですね!
広島から今日いらしてお疲れのところ、いろいろな父の思い出を聞かせていただき、どうもありがとうございました。
久しぶりにお目にかかれて嬉しかったです!!
ではまた明日、講演会場でお目にかかれますね!

村瀬 友二郎 様:1943年生まれ 70歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第6回山﨑 八重子 様 (82歳)

皆さん山崎さんが目標だと言ってくださるんです。

笹木  今日は大阪から講演会に参加していただき、どうもありがとうございました。
お疲れのところ申し訳ありませんが、お帰りの時間もありますので早速始めさせていただきます。
メグビーを摂るようになったきっかけからお話いただけますか?

山﨑  平成6年に産経新聞で三石先生の“どうぞお先に”の記事を主人が見つけたんです。
ちょうど活性酸素のことが出ていたんですね。
家業が鉄を溶かす仕事なものですから、主人はとても興味深く読んでました。と言うのは、鉄を溶かすのには酸素が必要ですが必要悪でもあるんですね。
それで主人は必要悪が活性酸素だからということが身にしみていましたから、とても興味を持って読んでいて「これは面白いぞ!」と私にも勧めてくれたんです。

笹木  産経新聞でも1年間の連載は初めての試みだったそうですが、反響が大きくメグビーにもたくさんのお問い合わせをいただきました。

山﨑  コラムの下の方に経歴が書いてあって、本も多く書いておられることが分かったので、紀伊国屋書店に探しに行ったんです。
「1901年生まれ 92歳 ボクは現役」を買ったんですが、文中にある配合タンパクをどうしても食べたいと思ったんです。
でも新聞にも本にもメグビーのことは書いてないので、あちこちの出版社に電話、電話ですよ。(笑)この本はどこで売ってますかって、聞きました。

笹木  そうですよね。絶版ばかりですから・・・

山﨑  でも、どうしても先生の飲んでおられる配合タンパクを食べたかったんです。
だから相当執着していましたね。(笑)あちこち調べて、やっとメグビーにたどり着いたんです。

笹木  新聞社にもたくさんお問い合わせがあって困るので、コラムの最後にはメグビーの電話番号を書かせて欲しいと言われました。
先生の飲んでいる製品が飲みたい。先生の書いた本が読みたいけれど、本屋に売ってない。というような問い合わせだったようです。
大阪での講演会にはいつもご主人とお二人で聞きに来て下さいましたよね?

山﨑  そうです。いつも一緒でしたね。
自分たちの老後のために勉強したほうがいいと言って、東京で勉強会があればすぐに新幹線の切符を買ってきてくれたんです。
自分も勉強したいからと、ビデオを買ってきてくれて・・・・
あちこちの勉強会にあつかましくビデオを持って行きました。
老後って言ったって、主人が63歳ですから、もう老人ですよね(笑)

笹木  山﨑さんのビデオと三脚は印象的でした。

山﨑  主人は医者にいろいろ言われてましたが、医者嫌いで20年ほど、きな粉や小麦胚芽など自己流の栄養学で食べてましたね。
でも、この勉強をさせて頂いて、これは違うという事が解ったんです。
これだけの量を食べるのはしんどいけれど、嗜好は嗜好。栄養は栄養。として別に考えようと主人が言ったんです。
それでずっと続けてこられたんだと思います。

笹木  健康にはもともと関心があったんですね。

山﨑  そうですね。いろいろ回り道をしたけれど、この先生の作られたものなら間違いない。
と主人は太鼓判を押していました。
物作りには動機が大切だと思うんです。先生はご自分が構築されたご自分の食べる為の栄養で、“商いではない”ということが他社とは違うんですよ。
よその会社はタレントさんを使って宣伝して完全に商いじゃないですか?
それが岐路ですよ!
だってどこの会社もこれでもか!これでもか!って宣伝するけど、メグビーは何もしないんですもの。

笹木  それがメグビーの良いところでもありますけれど、何も宣伝しないから会社が大きくならない原因でもありますよね(笑)
理論に則った製品作りをしているので、宣伝しても理解されないというか、理論がわからなければ続けて飲んでいただけないということがネックですよね。

山﨑  皆さんに飲んで欲しいけれど、難しいですねぇ。

笹木  父はこの業界を知り尽くしていましたが、社員が会社の製品を飲んでいるところはなかったけれど、メグビーでは社員全員が自社製品を飲んでいるというのが父の自慢でした。
健康食品を扱う会社の社長さんが、自社のものを飲まないでご自分はメグビー製品を飲んでいる方がいましたが、ご主人のおっしゃるようにその方にとっては“商い”でしかないわけですよね。

山﨑  それはビックリですね。 私たちは加齢とともに食事の量が減ってきましたけれど、その分はメグビーで補うようにして、今の健康状態を保ちたいと思っています。
メグビーを飲んでいる方は検査に行かない人が多いけれど、私は早く病気を見つけられればメグビーで対処できると安心しています。
主人は若い頃から糖尿病でインシュリンの注射をしていましたが、今はしていないんですよ。高血圧、高脂血症など循環器が弱いのは若い頃からですが、それなりに元気でいられるのは三石先生のお陰と思っています。
健康でいるには自分に必要な栄養を摂って活性酸素対策をきちんとするしかないと思うんです。

笹木  山﨑さんはきちんと勉強をして理解してくださっているので、続けて飲んでいただけるのだと思っています。
池袋(東京都豊島区)でのアカデメイヤ(1996年~1998年)という勉強会にもビデオを持って、毎月参加してくださいましたよね?
今のビデオとは違って大きくて重たいのに熱心な方だなと思ってました。しかも、大阪からの参加と聞いてビックリしました。

山﨑  講演会をはじめ、勉強の機会があれば全部参加しましたよ。
主人は“にゅーす あ・ら・か・る・と”を見て、勉強会があるとさっさと新幹線の切符を買ってきてくれるんです(笑)
いろいろな勉強会に参加して、たくさんお友達も出来ました。
こんなにたくさん飲んで大丈夫だろうか?と、迷った時期もありましたが、参加している方が「続けて飲まなきゃダメよ!」と。
先生の「血中に残るように多めに飲んでいたほうがいいですね。」とおっしゃった言葉が忘れられません。
先生と身近に接してみて驚いたのは、お顔の色艶が良くて、とてもお元気だということでしたね。
先生を見ていれば何も説明は要らないと思いましたよ。
これはメグビーを召し上がっているからだとね。
ある勉強会では「筋無力症が三石先生の栄養でよくなった。」と、話してくださった方もいましたよ。あの方はお元気かしら?

笹木  先週偶然道路でお目にかかったんですけれど、とてもお元気でしたよ。

山﨑  それは良かったわ。
私もこんなに元気なので、みなさん山﨑さんが目標だといって下さるんです。
だから、頑張らなくちゃ!!って、思えるんですよ。

笹木  ほんとに若々しくてお元気ですもの。とても80代には見えませんよ!
そういえば前に有名な女優さんとお友達だと伺ったことがありましたよね?
楽屋に会いに行ったとき、「勝った!」って思ったと(笑)

山﨑  はい、小学校からの無二の親友なんです。
それは美しい人ですが、しわの多いのにビックリしました。でもメグビーは薦められませんよね(笑)。
あなたがテレビで宣伝しているものよりメグビーの方がいい。なんてとても言えませんよ。出演料をぎょうさんもらっているんでしょうから(笑)

笹木  いつも大阪の講演会では会食にもご主人と参加して下さいましたよね?
父のことで何か印象に残っていることってありますか?

山﨑  先生の言葉は印象深く生活に役立つ思い出として心に残っています。
主人がどうやって一生を終るのがいいんでしょうか?って、お聞きしたんですよ。そしたら「そりゃ老衰ですよ。」と、言われてましたね。
会食の時にはどんなことでも答えてくださいました。
私は「良いお話なんですけれど、難しくてお友達に説明するのが難しい。」と言ったんです。
「わかった人だけが飲んだらいいんですよ。」と、笑っておられましたよ(笑)
それから「マルチビタミンで健康でいられるほど人間の身体は単純じゃないですよ」とも、言っておられましたね。
だから、個体差があるんですもの。みんなが三石先生の分子栄養学を学んで欲しいと、本当に思いますね。

笹木  私も山﨑さんの年齢になっても元気ではつらつとしていたいと思いました。
元気で年齢を重ねて、やりがいのある仕事が出来る人生は誰もが目標にしたいところですよね!今日はお時間のないところをどうもありがとうございました。

山﨑 八重子 様:1930年生まれ 82歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第5回花里 玲子 様 (63歳)  花里 道夫 様 (65歳)

メグビー製品を飲むと飲まないでは全く違いますからね。

笹木  本日は(12月2日)寒い中ありがとうございました。
花里(妻)
今日は小雪が散っていました。佐久は諏訪と並んで長野県でも寒いところなんです。

笹木  花里さんがメグビーを飲み始めたのは何がきっかけですか?

花里(妻)  母が最初なの。腎盂炎がひどくなって生きるか死ぬかの騒ぎになって。
それまでも何度も入退院を繰り返していましたが、医者からはもうダメかもしれないと言われたんです。
どうしたらいいのかわからなくなって、三石先生に相談しました。
50年も前のことだからメグビーもない頃ですよね。市販のものをいくつか教えていただき飲ませました。
5分くらいのところまで歩いていくのですが、身体がだるくて帰りはタクシーで帰ってくる。という状態でしたが、教えてもらったとおりに飲ませていたら、すっかり元気になって93歳まで生きて、まさに墜落死のような最後でした。

笹木  そんなことは信じられないほどお元気でしたし、最後まで頭もハッキリしていて素晴らしい生き方でしたね!

花里(妻)  元気だったので、講演会でも母が座っているだけで、宣伝になりましたよ(笑)

笹木  花里さんはメグビーを飲み始めたのは何時ごろからですか?

花里(妻)  メグビーは母からもらってたけど知識もなかったし、まだ20代だったので時々しか飲んでなかったですね。
私たちは、なかなか子供が出来なくて結婚して6年目に妊娠したけど、それまでにずっと不妊治療をしていたので、やっと子供が出来たのに手が震えてきたし、治療のための注射の副作用で、甲状腺機能亢進症になってしまったんです。
ちょうどメグビーが出来たころでメグビープロ、ミックス、E、Aを飲むように三石先生に言われました。
今、思えば無駄な飲み方をしたわね。粒の飲みやすいものばかりたくさん飲んで、プロテインやミックスは飲みにくいからと飲んでなかったのよ。
妊娠中も月に4日くらいは40度の熱が出て扁桃腺が腫れてしまうんです。本当に辛かったですね。
扁桃腺が腫れて高熱がでるのはずっと続いたんですが、メグビーGEが発売されて飲むようになったらいつの間にか腫れなくなったし、アレルギーも楽になりました。
しかも、難産で48時間もかかったけれど出血が少なくて不思議だって言われたの。

花里(夫)  本当に「いつの間にか」って感じで、熱が出なくなりましたねぇ。
その頃、気がついたら上を向いて寝ていただろ?

花里(妻)  そう言われたよね。
昔走り幅跳びをしていたときに、尾てい骨を痛めたせいで、寝るときは横を向いて身体を丸めてじゃないと寝られなかったのに、普通に寝られるようになりましたね。どこか変でもメグビーを飲んでると「いつの間にか」良くなるんですよね!

笹木  薬とは違って即効性がないから…。(笑)

花里(妻)  あとはお父さんよね。
父は腎臓が悪くなって入院し、やっと退院というときにお風呂に入った後高熱を出してね。脳がやられてしまって話は出来なくなるし、大好きなお茶はダラダラたらしてしまって飲むことも出来なくなってしまったのよね。
結局おたふく風邪だったんだけれど、病名がわかる前に抗生物質をたくさん投与されたための副作用が原因で、腎臓が悪化して透析になったんですよ。
このまま、廃人になってしまうかと思ってずいぶん心配しましたね。
退院して透析に通院することになったんですね。
メグビーDがちょうど8月に発売(1982年8月)され飲み始めたら尿もでるようになりました。
透析を始めると長くは生きられないと言われているけれど、透析をしながらも7年間は元気に過ごしました。

花里(夫)  私の母の場合は93歳の時に転んで大腿部複雑骨折で人工骨頭を入れる手術をしたんですが、その年齢なのに2ヶ月で退院できたことに医者はビックリしていました。

花里(妻)  私の母も手術前から頑張ってメグビーを飲んでいたせいか、他の方と回復の速度が全く違ってましたね。
同室の方は術後1ヶ月もトイレに行かれなかったのに、母は手術した翌日から自分で行きましたから、凄いでしょ?

花里(夫)  リハビリの評判がいい病院だったのは幸運でした。
ヒトフードのお陰で傷口もきれいだしね。

花里(妻)  私は傷跡を見せてもらったけれど、わからないくらいきれいになってましたね。
今は95歳ですがボケもせず杖も要らないくらい元気になりました。
骨折してから集中的にメグビーをたくさん飲んだお陰で、耳も良くなってきたんですよ!それまでは電話に出られなかったのに、今では平気で電話に出ています。

笹木  お年寄りの大腿骨骨折はそのまま寝たきりになったり、痴呆が出てしまう方もあると聞きますから、元気になられて良かったですね。

花里(妻)  私の場合は子宮筋腫が大きくなっていて即手術と言われたけど拒否して、1ヶ月浴びるようにメグビーを飲んだんです。
1ヶ月後に検査に行ったときには米粒くらいになってました。
取ったものを見せてもらったけれど、小さくなっていて先生も看護師さんもビックリしていましたね。
先生もメグビーの良さを実感して、その後患者さんから「花里さんに相談しなさい。」と紹介されたと電話がありメグビーを摂り始めた方もいるのよ。
その方は3日に1度注射をしていると言ってましたが、 薦めたとおりのものを飲んで今ではすっかりお元気ですよ。
その後もメグビーを飲んで下さってます。
メグビーを飲むと飲まないとでは全く違いますからね。
私も朝晩飲んでいるので、食べもののアレルギーや寒冷蕁麻疹もいつの間にか出なくなったし、風邪も引かないし、本当に健康です!!

笹木  前に書いて頂いた事があるけれど、ご主人も大病をされていますよね。

花里(夫)  そう、一過性の脳梗塞をやったのが55歳の時ですね。
当時単身赴任で、家にいるときには朝晩2回メグビーを摂っていたのに、1回しか飲まなくなって…。
新潟だったのでお米やお酒が美味しくてね(笑)
お昼は会社のお弁当で済ませていたけど、揚げ物が多かったですね。夕食も一人ですから簡単なものだったし…。

笹木  単身赴任だと何もかも自分でしなければならないから大変ですよね。

花里(夫)  運が良かったと言うか、梗塞が起こったのが自宅だったから助かりました。
週末お葬式があったので自宅に戻っていたときだったんですよ。
お葬式に行って、飲んで帰ってきたら割れるような頭痛で動けなくなってしまったんです。これは飲みすぎかな?と思ったけれど、話したくても話せないのでこれはちょっと違うなと…。

花里(妻)  私はもう寝てたんだけど「お水を持ってきてくれる?」と、頼んだのにいつまで待っても持ってこないので見に行ったら倒れてたのよね。

花里(夫)  右半分がダメで足は動かない。話したいけれど話せないんですよ。声は出るけれど口が利けない状態でしたね。

花里(妻)  横になっていたら言語障害は少しずつ良くなってきたし、歩けるようにもなったので、そんなに心配しなかったわね。
佐久病院でCTの検査をしたけれどわからなくて、MRIで目の奥が詰まっていると言う結果で、即入院になっちゃって(笑)

花里(夫)  画像を見て私でも良く判るほどで、太い部分のアテロームでしたね。
しかも、目の奥の方で手術の出来ない場所だと言われました。
ずっとメグビーを飲んでいたお陰で血管に弾力があったそうです。アテロームが出来るような患者は、血管が弱っているので毎日点滴を差し替えるそうなんです。でも、私の場合は入院中一度も変えなくても大丈夫だったんですよ。

笹木  どのくらい入院したんですか?

花里(夫)  ちょうど10日間でしたね。入院中話しは出来るけれど、言葉が浮かんでこない状態でした。
遺伝的に血管が弱いんです。みんな脳溢血で亡くなりました。父は42歳で、伯父さんも兄弟もみんな脳溢血でした。
割れるような頭痛で、普通の痛みとは全く違う痛みでしたが、まさか歩けなくなったり、しゃべれなくなったりするとは思いませんでしたね。
メグビーをやっていなければ、私もとっくにパンクしてましたよ(笑)

花里(妻)  「入院中はメグビーを飲むことが仕事なんだから、毎日たくさん飲んでね。メグビーを飲まないで半身不随になっても私は面倒なんかみないよ!」と、脅かしたのよね(笑)

笹木  看護師さんからは何も言われなかったんですか?

花里(夫)  もちろん隠れて飲みましたよ。随分飲んだよね?

花里(妻)  そうね。体調が悪いと思ったら、最初に大量に飲まなければダメだと体験しているので、頑張ってもらいました。

花里(夫)  退院する時にどのくらい良くなったか知りたいのでもう一度検査をして欲しい。と、言ったら、一度出来たアテロームは絶対に消えることはないので検査の必要はありません。と言われたんです。

花里(妻)  では、どのくらい悪くなっているか知りたいので検査をして欲しい。とお願いしたのよね。

花里(夫)  MRIの結果、跡形もなくなっていて、ビックリでした。
でも血液をサラサラにする薬は1年間飲みました。

花里(妻)  1年たったときにこういう薬を飲んでいたら生命保険に入れないので止めさせて欲しい。と、先生にお話してやっと薬と縁が切れたんです。

笹木  本当にたくさんの体験がおありになるんですね。だから自信を持って皆さんにお話できるんだと改めて思いました。

花里(妻)  メグビーリキッドを常備している幼稚園があるんですよ。
園長先生の息子さんが小さい時にストーブに手を突いて酷いやけどをしたんです。その時に“冷やしてはリキッドを塗る”を何度も繰り返したら、皮は剥けたけれど跡が残らなかったので「これはいい!」と園に常備するようになりました。
子供はこぶを作ったり、擦り傷や切り傷が絶え間ないでしょ。でも、すぐにリキッドを塗ってあげるとお迎えまでに治っているので、気に入ってくれているんです。
私は洗顔後リキッドを塗ってメグビーのローションとクリームをつけているだけだけれど、みんなに肌がきれいだって言われるのよ(笑)

笹木  本当にきれいな肌でビックリです。
今日はたくさんの体験談をどうもありがとうございました。

花里 玲子 様:1949年生まれ 63歳(インタビュー時)
花里 道夫 様:1946年生まれ 65歳(インタビュー時)

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第4回阿部 泰子 様 (71歳)

メグビーの製品はいつでも飲めるように持ち歩いています。

笹木  早速ですが、よろしくお願いします。
メグビーを設立する時に大益さん(メグビー創業メンバーの1人)から「札幌に妹がいるから北海道のお客様のお世話をさせたらどうだろうか。」と、提案があったのですが、それが父に会った最初ですか?

阿部  いいえ。初めて会ったのは17歳の時なの。
修学旅行で東京に行くので姉に会いたいと連絡し、指定の場所に行ったら三石先生の勉強会をしている会場だったんですよ。で、私も勉強会に参加したんですもの(笑)
そのときに食べたアイスクリームが美味しくて、美味しくてかみ締めて食べていたら溶けちゃってね。だって、バナナだって滅多に食べられない時代ですもの。そりゃあ美味しかったわ。
場所は上野だったと記憶しています。
そのときに先生から「勉強は好きですか?」と突然聞かれたから「はい!」って答えたのよ。本当は嫌いなのにね(笑)そうしたら、
「人間は死ぬまで勉強だよ!」と言われたことは未だに忘れられられませんね。
札幌のお客様は大学の先生とかお医者様とか知識のある方が多かったので、その言葉を忘れずに勉強してきました。

笹木  病気のことについてのご相談は広範囲なので大変ですよね。

阿部  自分にも勉強になるので、インフォメーションを読んだり、講演会のノートを見たり、勉強会のノートを調べたりしますね。それでも、わからない時は半田先生(三石理論研究所所長)にお聞きして答えるようにしています。
講演会の後のお食事のとき三石先生に「必要のないことは覚えなくてもいいんですよ。」と言われましたね。
それから「カラオケ?それは必要ありませんね。」って(笑)

笹木  父らしいですよね(笑)
大益さんとは幾つ違いですか?

阿部  私は母の再婚後に産まれたので、16歳も違います。

笹木  16歳ですか?私たち兄妹と一緒ですね。

阿部  母が亡くなってから姉に対する気持ちが変わってきたわね。母から聞く姉ではなくて、自分で接してみたらぜんぜん違っていましたね。
歳をとってきて札幌で一緒に過ごすようになってから、私に何か頼むときもとても気をつかってやさしい言葉で頼むんです。施設に入ってからもお世話してくださる方にいつも優しい言葉をかけているのをみていて、私も姉のように歳をとりたいと今では目標になっています。

笹木  大益さんはメグビーの最初のお客様ですから、お元気なら対談をしたかったです。今年は3回忌ですよね。
故郷の札幌で妹さんがメグビーの中心になって活動していることや、勉強会が存続していることを喜んで見守ってくださっていると思いますよ。
勉強会は今日(2012年10月10日)で274回にもなるんですって?

阿部  勉強会は皆さんが楽しみにしていますからね。
私は皆さんが興味を持つような話題を提供するようにしています。
兄は耳が聞こえないんですけれど、ペニシリンがダメなタイプだったんですね。
医者も親もそんなことは知らないから風邪を引いてペニシリンの注射を打ったら突然聞こえなくなってしまったんです。
それはたった1個の遺伝子が短いことが原因だということを勉強会で習ってビックリしました。

笹木  医者は遺伝子のことまで調べないから、治療したことで困ったことが起きている人が結構いるのかもしれませんね。

阿部  兄嫁も同じ遺伝子を持っていて、やっぱり聞こえないんです。
勉強会ではこのようなことは皆さん興味を持って聴いてくださると思うので、時々身近な問題を取上げるようにしているんですよ。
難しい話じゃなくて身近な問題だ。ということを解ってもらいたいといつも考えています。

笹木  難しいことばかり話していたら、だんだんに離れていってしまうかもしれませんね。

阿部  私は8年ほど前に胆石の手術をして胆のうを取っているんですが、そのことは問題がないのか勉強会で質問したことがあります。
本によると胆汁は垂れ流し状態で、常に腸は刺激を受けているので大腸がんになりやすいと書いてあったので、気になって2年に一度検査をしているのですが、看護婦さんに心配ないから3年に一度位で大丈夫ですよ。と言われました。
こういう疑問を持っている方は多いだろうからと、勉強会の話題にしてみたわけです。
そうしたら、勉強会に参加している医大生が“胆汁が酸化されなければ、害はない”と北大の〇〇教授は言っていた。と話してくれました。
そんな風に勉強会では誰かの問題をみんなで解決していけるので、続いているのだと思いますよ。
昨夜は黄班変性症の方がメグビーで良くなった話をしてくださいましたが、暗くなると見えなくて外出できなかったのが良くなったと、半年振りに勉強会に出席されたんです。
彼女は半田先生やメグビーの管理栄養士に何度かご相談していて、メグビーだけで治したいと頑張っていました。

笹木  劇的に良くなって本当によかったですね。
阿部さんは一緒に出かけた時もすぐにメグビーSやメグビーCを飲まれていますけれど、いつでも持っているんですか?

阿部  もちろんです。いつでも飲めるように持ち歩いていますよ。
前にガンの手術後に放射線をあてるのだが、メグビーで出来ることが何かないかと質問されてことがあるんです。
そのときは三石先生がご健在だったので、電話をしてお聞きしました。
“放射線を当てる前にメグビーSを5本。それで害が0にはならないけれど軽減される”というのが先生のお返事でした。
それからは放射線をあてるという方には、お教えしています。
そんなに違うんだ!と、その時に思ったんです。
メグビーSやCを持ち歩くようになったのもそのころからですね。

笹木  阿部さんはどこにいてもすぐメグビーSやCが出てきて、さっと飲む。というのが普通になっていて、お元気で若々しくて羨ましいくらいです。
健康自主管理が出来ているというお手本ですね!
今後とも、よろしくお願いします。

阿部 泰子 様:1941年生まれ 71歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第3回安保 玲子 様 (66歳)

メグビーは私の健康バロメーターです。

笹木  今日(2012年10月11日)は地域の活動でお忙しい中、お時間を作ってくださってありがとうございます。
安保さんは父に会ったのはいつ頃ですか?

安保  私が苫小牧に住んでいたときに先生の講演(1985年9月)があって聞きにいったのが最初です。
そのときに大きな“魚の目”があると阿部さん(北海道在住のお客様:インタビュー記事はこちら)に話したらビタミンAが足りないのよ。と簡単に言って、「肝油でもいいのよ。」と、決してメグビーを押し付けるようなことは一切しなかったのね。
それでかえって信用できたと思います。
肝油を飲んだけれど良くならないので、メグビーAを飲み始めたらいつの間にか消えていたのよね。だから、最初に飲み始めたのはメグビーAでしたね。
それからは、先生の“追っかけ”をしてアチコチの講演会について行きましたよ。(笑)
どこだったか講演会の後でお茶を飲んでいる時に、“遺伝子”が話題になりました。
それってどういう意味?遺伝子って何?と、もっと深く知りたくなりました。
そのときの先生のお話が忘れられなくて、どういうことか知りたくて、勉強しだしてからは、すっかり三石先生の追っかけですね。(笑)

笹木  安保さんは、長年飲んでいたステロイドからの離脱が出来たんですよね?

安保  すごいムーンフェイスになって太って、太って、着るものがないんですもの。
でも痛みがひどくて飲まないわけにはいかないですから。

笹木  私も安保さんが痛みに耐えているときを知っていますから、ステロイドを止められて本当によかったと思っています。
でもそういう人って珍しくないですか?

安保  そうだと思います。奇跡ですよね!
私の場合は病名がわかるまであちこちの病院で検査を受けましたが、いくら検査をしても病名がわからず、痛みだけはひどくて辛い時期もありました。
4つ目に行った北大で「リュウマチ性多発性筋痛症」だとやっとわかったんです。
それからはステロイド10mgを飲み続けてきました。メグビーSをたくさん飲んでいたので仕事を続けられましたけれど、同時期に発症した方たちはみんな車椅子になっていて、飲んでいるとみんなと違うんだ。と実感しましたね。しかも肝硬変も併発していましたが、その薬は一切飲まないで、財布の許す限りメグビーだけを飲もうと思ったんです。面白いことに肝硬変だったときにはビールが美味しく感じられませんでしたね。
私はヒトフード(メグビープロ、メグビーミックス)やメグビーAが不足するとダメだとわかったの。足りなくなってくると疲れて10分でも20分でも良いから横になりたくなってしまうんだけれど、ヒトフードとメグビーAを飲むと、また元気になれるんです。
メグビーは私の健康のバロメーターになってるんですね。

笹木  そう言って下さると嬉しいです。

安保  肝硬変もメグビー以外薬は飲まなかったけれど、先日の検査では最高の数値だ。と、先生に言われて嬉しかった。私が薬を飲まないで治したことは先生が証明してくれるけど、「もう少しやせた方が良いね」って。(笑)
リュウマチの方の数値も全く正常になっているんですよ!
私は三石先生に足を向けて寝られないと思っています。

笹木  太っていても健康でいることのほうが良いですよね!

安保  今年母が亡くなって、お骨を拾った時に人工骨頭のあまりの重さに恐ろしくなって、すぐにメグビーボーンを増やしてしまいました。(笑)
そうしたら、自転車で転んで半月板が損傷して痛かった膝が、すっかり治ってぜんぜん痛くなくなったのよ。嬉しくて!

笹木  それは良かったですね。
メグビーを飲んでいると、気がつかないうちに症状が消えているってことをお聞きすることがよくあるんですよ。

安保  それから三石先生は「90歳まで寝たきりで歳を取るのは嫌でしょ?」って、よく言ってましたよ。
これからは、余計なもの買わないでメグビーを飲まなくちゃね。(笑)

笹木  よろしくお願いします!!
今日はありがとうございました。

安保 玲子 様:1946年生まれ 66歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第2回星野 フサ 様 (71歳) 若木 邦子 様 (62歳)

三石先生は凄いものを残してくださったと感謝しています。 (星野様)
毎日ウォーキングをしていますが、ヒトフードを飲まないで歩くと身体が硬いと感じますね。 (若木様)

笹木  10月の札幌は空気が澄んでいて肌寒いですね。今夜(2012年10月10日)は定例の勉強会がある日なのでお忙しいと思いますが、お時間を取っていただいてどうもありがとうございました。 お二人の出会いはどのようだったのでしょうか。

若木  昭和54年に私たちの息子が紫斑病で札幌の天使病院に入院していたんです。息子は小1、星野さんの息子さんは年少さんでしたよね?

星野  そうまだ4歳でしたね。
その時に若木さんの息子さんと同室になったんですが、重症の子供ばかりでしたね。

若木  小さな坊やが「おばさん。ボクね、もうすぐ死ぬんだよ!」と話しかけてきたので、それはびっくりしました。
夕方お見舞いに来るのを待って「お母さん。息子さんにそんなことを話したんですか?」と聞いたのがきっかけです。
うちの子よりも幼い子がそんなことを知らない私に話すなんて、とても衝撃でした。

星野  私もそれを聞いてびっくりしましたね。病気のことを話したこともないのに、先生たちの話や、ステロイドの副作用で顔がパンパンになっていたので子供なりに、感じ取っていたのかもしれませんね。

笹木  紫斑病はいろいろなタイプがあるそうですが、病気のことはどうしてわかったのですか?

星野  保育園の保母さんに膝の色が黒くて変だから、北大病院の武田先生のところに行ったほうがいいと言われたんですよ。
その保母さんは子供さんを病気で亡くしていたらしく、子供の変化に敏感な方でしたね。
私は病気だと思ったことはなかったです。元気だし、子供だから膝をついて遊んでいるから少し黒いのかな?位にしか、感じていませんでした。
北大病院に連れて行くと言ったら、おばあちゃんもお父さんも「膝が少し黒いくらいで、大学病院に行ったら笑われるよ。」と言って相手にしてくれませんでした。
検査の結果は“突発性血小板減少性紫斑病”という難病で治癒率60%、小学校に行かれるようになるかはわからないと言われました。
治療法としては脾臓をとれば一時的には良くなるが、敗血症で亡くなる場合が多いので手術はしたくないと言われたんです。
息子はステロイドが効かないタイプだったんですね。
抗がん剤では副作用があるので、英文誌で読んだヒト免疫グロブリン治療を月に100万円を超えないように調節して貰いましたが、札幌では第1号の患者でした。
その頃、女優の野添ひとみさんのお嬢さんが同じ病気で亡くなったばかりでしたから、高くても病気が治ることならどんなことでもしようと思いました。

笹木  若木さんの息子さんも同じだったのですか?

若木  うちは難病指定ではない紫斑病でした。
腹痛の繰り返しで、原因がわからないので「お腹を開いてみましょう」と言われて悩んでいた時に、星野さんに三石先生の“ビタミンE健康法”いう本を読んでみたら。と貸していただきました。

星野  うちは難病同士の集まっているところに行けば慰めになると、かかりつけの医者からすすめられていた時だったんですよね。
だから、助かる手立てはないかと探し回ったんです。
そんな時に三石先生の本に出会ったんですねぇ。この先生に連絡してみよう!と思いました。

若木  星野さんが「うちは医者にサジを投げられたみたいだから、三石先生にかけることにした」と言ったんです。

星野  そうでしたよね。
私はストレスで声が出なくなってしまって授業(高校の理科の先生)は、マイク使用でやっていました。
でも、メグビーのヒトフード(メグビープロ、メグビーミックス)とメグビーAは良かったですね。飲み始めたらすぐにマイクはいらなくなりました。

若木  私も医者に頼ろうとは思わなかったですね。

星野  同僚が奥様の脳腫瘍の術後を心配され、三石先生に会いたい、と言ったんですね。
それで私、三石先生の本の後ろを見てご自宅に電話したんです。
「近々函館に講演に行くので、札幌に寄りましょう。」と言って下さいましたので、札幌グランドホテルに同僚と若木さんと3人で会いに行くことになりました。

若木  緊張していたんですが、庶民的でとても感動しました。

星野  三石先生は「紫斑病を治した経験はないけれど、やってみましょう!」と言って下さいました。

若木  星野さんの判断がよかったのよね!あのまま医者任せだったら辛いことになっていたでしょうね。

笹木  星野さんは4歳の子供さんにどの位の量を飲ませたんですか?

星野  食べ物は一切隠して眼に触れないようにして、三石先生のものだけを食べさせました。
とにかく、どんなことをしてでも子供を死から遠ざけたいという、一心で希望を捨てませんでした。
担当医にも相談しましたが、「効かないだろうけど、やってみたら」と言われましたね。
病院では打つ手がないんだから、そう言うしかないですよ。
弱音をはかないで、私の言うとおりに一生懸命飲んでくれた息子に感謝しかありませんでした。
息子は膝が黒くなるのが特徴の紫斑病だったので、何か飲ませても効いているか効いていないかは膝を見ていれば判断できたのがラッキーでした。
例えばニンジンジュースとか飲ませていると黒くなってくる。三石先生のものを飲ませていると膝の色が薄くなってくるといった具合でした。

笹木  今ではお元気なんですか?

星野  ええ!全く健康ですよ。結婚して幸せにやっています。
(息子さんの結婚式の写真を見せていただきました)

若木  下の息子も中2の時に、朝起きたら熱が40度もあって、急に歩けなくてトイレにも行かれなくなったんです。びっくりして家にあったプロやAやCやあるもの全部飲ませて病院に行きました。
先生は「これは普通じゃない。難病で多分膠原病でしょう」と、診断されたんです。
家に着くなり息子に「生きるか死ぬかなんだから、メグビーを飲もうね!」と話しました。「どんな量でも飲む」と言ってくれ、本当に大量に3日間飲み続けたら、歩けるようになったんですよ!しかも、4日目に診察に行ったら、何でもないと言われたんです。

笹木  それは凄いですね。そこまで子供たちがお母さんを信じて飲むって、凄いことですよね。

若木  それにまだあるのよ!
主人が定年後は今まで(小学校の教師)と違う仕事をしてみたいといって働き出してしばらくしたら普通に歩けなくなってきたんですよ。
良く話を聞いてみたら耳鳴りや寝不足で神経をやられていると思って病院にかかっていたんです。毎日出かけて行くから私は仕事に行ってるとばかり思っていたら、5箇所の病院に通っているというんですよ。
しかも、5箇所の病院からそれぞれ出されている薬を飲んでるっていうじゃないですか。これは副作用だと思ってその日に止めさせて、またまたメグビーの大量摂取ですよ!(笑)
筋肉をやわらかくする薬が出ていたのを止めたので筋肉が硬くなって、食べられない、便が出ないでお腹はカチカチ、息も苦しいし、「死にたい」としか言わなくなって・・・・
私だって本当に辛くて泣きました。
でも、1ヶ月くらいで治りましたね。メグビ-Bは特に大量に飲ませました。
私は息子たちや主人の経過を見ていて思うことは早期に短期間に大量に飲んで健康になったほうが良いと思っています。

星野  三石先生の処方はいつも少なめでしたね。(笑)

笹木  そうかもしれませんね。
メグビーをいくら飲んでも副作用はないけれど、お財布に副作用があるって言ってましたから、少なめにお話ししていたのでしょうか?

若木  この症状にはどれ位の量が必要か、見極めが大切よね!!
自分で考えなければダメですよね。
私はお金がなければ借金してでも短期間に大量に飲むことが大切だと思ってます。
だって元気になれば、借金なんて返せるんだもの。

笹木  それはどうもありがとうございます。
子供さんは今でもお飲みですか?

星野  メグビーをずっと飲んでいる息子と、飲んでいない娘と同時に風邪で高熱を出したことがあるんです。
息子はメグビーを飲むとすぐに治るのに、いつも飲んでいない娘はその時だけメグビーを飲んでも1週間もぐずぐず治らなかったんです。
それで、継続することで効果があるという事がわかりました。
そのことを体験しているので息子も娘も今でも飲んでいます。
娘は週に3~4日は朝の3時まで仕事をしているけれど、メグビーSのお陰で体調を崩すことなく働けると言っています。
遅くまで仕事をしても大丈夫なのはメグビーのお陰だと言っていますね。

笹木  自分で体感していると、メグビーの良さがわかっていただけるということでしょうか。

若木  私は毎朝ウォーキングをしているんですがヒトフードを飲まないで歩くと身体が硬いと感じますね。
それだけ老化が進んでいるんですね!
それから、心臓はいつも検査で引っかかるので、この頃はメグビーボーンを10粒とメグビーQを飲んでから検査に行くのよ。そうすればぜんぜん引っかからないの(笑)

笹木  本当にいろいろ体感してご自分で工夫して、自主管理が出来ているということだと思います。ありがとうございます。

星野  これから勉強会ですが、今日で274回になるんですよ。

笹木  もうそんなに?!
本当に長い間続いているのですね。

星野  勉強会をするようになったきっかけは息子なんです。
小さいけれどメグビーで紫斑病が治ったことは解っているものですから、新聞に病気で悩む人の記事が出ていると「どうしてお母さんは困った人のところに行ってメグビーを教えてあげないの?どうして助けてあげないの?」って、言うんですね。
お母さんはそういうことはできないから勉強会で皆さんにお話するね。と言って始めた勉強会が274回になっただけのことなんですね。

笹木  そうだったんですか。すごい息子さんですね!
本当に今日はありがとうございました。
今まで、詳しいことはお聞きしたことがなかったので、いろいろ伺えてよかったです。

星野  メグビーの製品には恩恵を受けています。
三石先生は凄いものを残してくださったと感謝していますよ。
それに、この対談はとても良い企画だと思いますよ。他の方たちのお話も読ませていただくのが楽しみです。
では、勉強会に行きましょうか!

星野 フサ 様:1941年生まれ 71歳(インタビュー時)
若木 邦子 様:1950年生まれ 62歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第1回長谷川 きよ 様 (93歳)

90歳を過ぎても病院の世話にならないから「子ども孝行」と言われています

笹木  本日はお暑い中(2012年7月10日快晴)、会社までお越しいただきありがとうございました。
駅から歩くのも大変なくらいの暑さなので、心配してました。

長谷川  あらぜんぜん大丈夫!だって私くらい歳をとると暑さも感じなくなってるから(笑)

笹木  メグビー創立以前から共に歩んできたお仲間が高齢になりだんだん亡くなっていくので、お元気な方々にお話をお聞きしたいということで対談が企画され、メグビーの役員でもある長谷川さんからということになりましたので、よろしくお願いします。

長谷川  三石先生のことなら、いくらでもお話できますよ。
何しろ先生の講演会はどこにでも付いていきましたし、ドイツもフランス講演もご一緒しましたからねぇ。
そのほかにも勉強会、宿泊研修も参加したんですから、留守中、主人は、どうしてたのかしら??何にも考えないで先生の行くところには、私も行くものだと・・・(笑)

笹木  父はご主人に申し訳ないからと長谷川さんのところ(ご主人は紳士服のオーダーメイドがお仕事でした)以外でスーツを作ることはしませんでしたね。
私はまだ子供たちが小さくて海外まではとても付いて行かれませんでしたが、今思えばあの頃の長谷川さんは、今の私よりずっと若かったんですね。
一口に30年というけれど、そう考えるとずいぶん昔のことになってしまいましたよね。

長谷川  ほんとにねぇ。嫌になるわねぇ(笑)
専務や常務がまだ小学生だったんですもの。歳をとるのは当たり前だわね。

笹木  長谷川さんはどこかが悪くてメグビーを飲みだしたわけではなかったと思いますが、メグビーとの出会いからお話いただけますか?

長谷川  メグビーとの出会いというより先生との出会いといった方が良いと思います。
50代のときに半田さん(三石理論研究所所長)の紹介で3人でお食事したのが最初です。
社会教育の講座をやっていたので、その場で講義をしていただけないかと打診しました。
気持ちよく受けてくださったのですが、区からの謝礼は少ししか出なかったので、それでは安すぎるということになり皆で集めてお払いしたことを覚えています。
半田さんもその少し前に津田の同窓会で久しぶりに先生にお目にかかり、何もしていないのなら勉強会に出ないかと誘われて分子栄養学の勉強を始めたばかりでした。

笹木  半田さんとは昔からのお知り合いでしたよね?

長谷川  そう、ずっと社会教育でご一緒でしたね。
先生からご自宅の勉強会に誘われ「文明の解体」を読み、今まで読んだ本とは違っていて引き込まれたのがきっかけです。
先生の考え方が私と似ていて共感するところが多く、先生についていこうと思ったことが結局メグビーにつながったということだわね。

笹木  そこの所が皆さんと違いますね。

長谷川  メグビーの製品というより、なぜ摂るのかという考え方や生き方、哲学を教えていただきました。自分で考えなくてはダメだということも教わりましたよ。
すべて吸収したくて勉強会も講演会も一度も欠席しませんでしたね。

笹木  長谷川さんは健康でどこも悪いところはなかったんですか?

長谷川  寝込むほどではないけれど低血圧だし胃弱でしたよ。入院は盲腸以外したことはありませんね。
だから、子供たちに「子ども孝行」だと言われてますよ。だって、病気で心配させたことないんですもの。
娘は「三石先生と出会ってよかったね」と言ってくれます。
私の実家はガン家系でみんなガンで亡くなっているけど、私はストレスの処理が上手なのかしら?今までそんな心配をしないで生きてこれたのはメグビーを飲んでいたからで、本当にありがたいと思います。

笹木  今もお一人で生活していらっしゃるし、奥田さんのバランスボール教室にも参加して、勉強会も受け持っていらっしゃいますよね?
半田さんの専科にも欠席なさらないし、本当にお元気ですね。
90歳を過ぎて外出が苦にならないって、凄いことだと思いますよ。

長谷川  それはぜんぜん平気よ。
勉強会って言っても「身体の仕組み」とか「グルコサミンやコンドロイチンは自ら作るものです。」というような私なりの考え方をお話しています。
89歳からは墨絵を習い始めて、月に2回通ってるけど、とっても楽しいの。
家にいるときには墨絵を描いたり、数独をしていますが、数独も前より時間がかかるようになったかしらねぇ。
編み物も好きだったけれど娘に細い糸でショールを編んだらすっかり腰から足が痛くなってしまって(笑)もう編み物はやめました。
8月には娘と北海道の北見までちょっと行ってこようかと思ってるの。たった2泊ですけどね。メグビーは必ず持って行きます。
だって3日飲まないと足が重くなるんですもの。
温泉卵は作り置きしておいて、気がついたら食べるようにしています。
テレビを見るときにはバランスボールに腰掛けるようにしているから、それも健康につながっていると思います。

笹木  頭脳明晰、背筋もまっすぐで血色もよく本当にお元気な93歳の長谷川さんに、脱帽です。
今日は本当にありがとうございました。

長谷川 きよ 様:1919年生まれ 93歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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